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町石について
宮島弥山倶楽部 弥山登山道 「町石」紹介ページ
弥山参詣登山道に一丁(町とも表記・109m)ごとに設置された道標石造物「町石」。
仏像が彫られた古いものは(最古のものは慶長年間)長い年月風雨にさらされ、風化
して弥山の自然にとけ込んでいます。
確認されたものは 77基あり、探しながら歩くのは 登山とはひと味違う弥山の楽しみ方です。
《町石とは》
山上にある寺社への参道に その行程を一町ごとに示した石があり、これを
「町石」と呼んでいます。これは 単に距離を示すだけのものではなく、一丁登
ぼるごとに 聖地に近づくという信仰に基づくものと考えられています。
全国各地にあり 弘法大師が開いた祈りの道として本家本元「高野山町石道は」は
「紀伊山地の霊場と参詣道」として、町石道そのものが世界遺産に登録されています。
また宮島の対岸 極楽寺山参詣道にも町石は残っています。
いずれも1丁ごとに合掌しながら登山したこの道は、まさに祈りの道、信仰の道です。
《弥山町石の由来と建立時期》
町石は弥山参詣の登山道に建立された 距離を標示する石造物ですが、弥山信仰の
証でもあります。開山当初は 木の卒塔婆をたてた道しるべが 江戸時代に 石造物
に立て直されています。
弥山道(大聖院)・紅葉谷道・大元道及び奥の院への登山道に 現在77基が確認さ
れました。(但し 2005年9月の台風土石流被害により8基流失・内1基のみ発見、
残り7基は現在も埋もれたままの状況)
「慶長四年」(1599年)銘のものが最も古く(弥山道八丁・大日堂前十七丁)、
これは 毛利輝元が 大日堂を再建する際 参詣道整備にあわせ建てたものです。
仏像の付く町石は 「元文三年」(1738年)の災害による登山道復旧工事等に伴い
新たに建立されたもの。寄進者として「満足屋」の名が読めます。
同様に 明治39年(1906年)伊藤博文による登山道整備のものは 四角柱・丁名
のみの簡潔な形状で 最も多く現存します。
また 仏像の付く三角形の町石は 形態、図柄などから数種認められ、建立時期も
様々で 江戸初期と考えられますが のどの時期なのか 特定することができていま
せん。
大元道・奥の院・紅葉谷道の各町石については 残念ながら詳細は判っていいませ
んが、奥の院への町石は 形状から弥山道江戸期のものと同一かと 推測されます。
《各登山道の町石の現状》
弥山道には 慶長期・江戸中期・元文期及び明治以降の町石が混在し、丁の数字も
前後したものがあり、一見 混乱します。
特に 仁王門から本堂までの間は 過去の資料に在るものの現在は見つけることが
出来ないものが数基あり、度重なる災害などで流失または埋もれてしまっていると思
われます。
弥山道 41基(内 2005年台風で流失したものは 7基)
a 慶長期 三角形仏像付 2基
最も古いとされるものは 「慶長四年(1599)」銘町石であり、
弥山道中程の祠まえの「八丁」大日堂前「十七丁」の二基には
銘文が確認される。これ以外にも 形体から慶長期と推測され
るものが数基ある。
b 江戸初期と推定 三角形仏像付 10基
形体、刻字、仏像の図柄などから さまざまな時期に
建てられた模様である。
c 元文期 四角柱仏像付 9基
仏像が付く町石がこれにあたり、「一丁」「九丁」には
元文三年(1738年)、「満足屋」寄進とある。
「十六丁」は 崖下に落下していたものを発見・引き上げた
d 明治期以降 四角柱 20基
「一丁」から頂上「二十四丁」まで 見られるが、年号はない。
「二十四丁」は 大正15年「皇太子殿下御展望跡」とある。
大元道 2タイプ (四角柱・三角形仏像付) 21基
奥の院・御山神社 3タイプ (三角形仏像付) 8基
紅葉谷道 1タイプ (四角柱) 7基
合計77基
《町石一斉調査》
第1回実地測量 平成15年 1/13 弥山道・大聖院ルートから 山頂
第2回実地測量 平成15年 9/23 大元道ルートから 奥の院まで
★平成16年12/18 弥山道元文16丁町石再発見 引き上げ整備
第3回 平成17年9月台風土石流による町石の被害調査
及び 2丁町石 引き上げ
《起点道標と距離》
各登山道の起点の道標として
大聖院下に 弥山道「是よりみせんみち 御山頂上へ 廿四丁廿四間 」
紅葉谷入り口に 「御山道 頂上へ 二十四丁半 」
大元公園に 「御山道 御山頂上へ 廿九丁 」
一丁は距離109mであるが、建立時期の異なる数種の町石は 位置関係が前後
しており、現状は等間隔にはなっていない。但し 明治期のものは 欠けるも
のがあるものの ほぼ同間隔正確な位置にある。
また 計測の結果、弥山道起点から 山頂まで2525 mあり「廿四丁廿四間」と
ほぼ一致している。しかし 江戸期には 弥山道は 「本堂まで登十八丁」で
現在よりも 短いルートがとられていた様である。 尚 大聖院より山頂までの
石段数は 2610段であったが、現在は土石に埋まっている。(大聖院調査による)
◎大聖院 弥山道 起点道標
「 是よりみせんみち
仁王門へ 十八丁
御山神社へ 廿一丁廿三間
求文持堂へ 廿一丁廿六間
御山頂上へ 廿四丁廿四間 」
◎大元ルート 起点道標
「 御山道 富士岩へ 七丁
龍ヶ洞へ 一七丁
岩屋大師へ 一八丁
駒ヶ林へ 二一丁
仁王門へ 二三丁
御山頂上へ 廿九丁 」
◎紅葉谷ルート 起点道標
「 紅葉谷弥山道
桜岩へ 四丁
屏風岩へ 七丁
紅葉滝へ 七丁半
天然橋へ 一四丁
大黒天へ 一八丁
御山本堂へ 二十二丁
頂上へ 二十四丁半 」
【町石あれこれ】
この宮島弥山の「町石」のあれこれについて 紹介しましょう。
今は失われている町石――――発見してみては?
宮島弥山への登山道には 数多くの石造物や石仏が眼につきます。
なかでも 本来は参詣道の道標として建てられた「町石」は よく見ると
形も様々で 示されている丁目も前後していたり 埋もれていたり--------
なかなか謎めいています。
《本堂まで十八丁------今よりも短かった!!》
弥山道の登り口、懺悔地蔵堂の基壇に「本堂まで登十八丁」と刻されていて、
大日堂の石段下に十八丁の町石が2基ある。登山道が改修される以前、江戸期には
今の頂上まで二十四丁でなく、本堂まで十八丁の三丁短い急峻な登山道だった事を
示している。
《二十二丁は4基・二十三丁は3基も在る!!》
建てられた時期が違う町石が数種類あるため、同じ「丁数」のものがあったり、
「丁数」が前後していることがある。数えながら登っていくと 錯覚することに
なったりする。
仁王門のところは 大聖院からの弥山道は「十八丁」、大元道は「二十三丁」で
合流する。
《幻の慶長町石!! 今は失われている――――発見してみては?》
最古の「慶長四年町石」は 現在八丁に1基だけ残っているが、記録によると
仁王門のところと 十二丁にも 昭和20年代まで存在していたと云うことだ。
(昭和28年宮島町広報紙による)
「元文十六丁町石」は十年ほど前の写真も残っていて、仁王門を過ぎたあたりに
在るはずなのだがと 二年間探した結果、平成16年12/18 10メートル下の崖
下に町石再発見 引き上げて 参詣道の元の位置に戻す。
《大元道の町石は「丁」ではなく「町」》
大元道は 今の登山ルートと違っていて、大元川の橋の手前右手に入ると
「一町」「二町」と続き(「三町」は不明)、「四町」で現ルートと合流する。
「二十二町」に 三角形の石仏の付く町石が1基あり 文字がかすかに認められる。
弥山道・奥の院道の江戸期のものと同タイプか 今後検討を要する。
《寄進者「満足屋」》
一丁と九丁(埋もれているので判読出来ないが)の元文期町石には「寄進満足屋
惣右○○」と刻され 唯一 寄進者が判る。(満足屋は広島城下の穀物商)
また 弥山本堂裏手にも 「寄進満足屋忠右衛門正種 奉寄進」の石灯籠が在る。
《倒れている・折れている・埋もれている------修復すべきか・現状を保つべきか》
完全に倒壊しているのは 「弥山道二十丁」「紅葉谷十一丁」「大元道九町」
立て掛けられているものは「弥山道十二丁」「三鬼堂二十三丁」「文殊堂二十二丁」
「大日堂十七丁」「奥の院二十七丁」など。
【遊女石畳】
弥山道十五丁付近にある敷石道は 江戸時代に 宮島新町胡屋などで働く
遊女たちが寄進して造られたものである。敷き詰められた石畳は 101m現存し
道端には「奉寄附捨間 當所新町胡屋」と刻まれた寄進を示す3基の石柱も残る。
但し これも 平成17年9月台風土石流により 下部 1/3が流失、 現在
砂防堰堤計画で埋もれることが判明、 保存の対策が検討されている。
◎弥山道「登り18丁」と江戸期石仏についての仮説
「江戸期には18丁であったのにもかかわらず、何故22.23丁町石があるのか」という
疑問に対して、当初は 単に 24丁への改修後江戸後期に22.23丁は建てられたと考えていた。
しかし、「登り18丁」は 江戸末期の1837年まで 記録されている事が 判明した。
江戸期を通じて 現在の山頂まで24丁・大日堂まで21丁よりも 短い弥山参詣道が
とられていたことは「厳島道芝記」1697年から「厳島図会」1837年等に記述されている。
このことは、その直後から明治初期の廃仏毀釈の時期までの短期間に、尚かつ幕末の世相あわただしい時期にこれら三角形の町石が
数多く作られたとは 考えにくいと言うことを示しているのではないか。ましてや廃仏毀釈後の明治以後に建てられたとも考えにくい。
では 仏像付の三角形の町石のうち 22丁・23丁は 何時の時期に建立され、現位置に据えられたのであろうか?
江戸期18丁までしかないにもかかわらず(大日堂ではなく山頂までとしても21丁となる)、何故 22丁や23丁となるのか、疑問が残る。
従って 江戸末期「登り18丁」と22・23丁の町石の存在との整合性ある解釈として次の仮説を検討したい。
《仮説》
・22・23丁町石は 大元道頂上まで29丁・奥の院31丁の町石の一つとして江戸期に建立された。 ・弥山道(大聖院ルート)は「本堂まで登り18丁」の示す通り、江戸期を通じて大日堂まで18丁
であった。
・明治期に 登山道改修がなされ、頂上まで24丁とした際に、大元道から数えた町石を明治期の
24丁に合うように、再度置き直された。
大元道に残る22丁三角形町石、奥の院への町石は 22・23丁町石と形状が類似する。
・大日堂前にある17丁町石は 明らかに移動されたものである。
・「昭和28年宮島町広報紙26号」において慶長から元文の間の時期の町石として6基の存在に
言及している。
・仏像付三角形の町石は 6丁を例外に(しかもこれは形状が異なる)
すべて仁王門から山頂までに存在する。
◎弥山登山道 元文十六丁町石引き上げ
平成16年12/11、二年前から探していた「失われた町石」-------「元文十六丁町石」を
崖下から発見した。仁王門から頂上へ向かう登山道の80m先の南斜面、崖下8mの所に、
仏様がまっ逆さの痛ましい状態で恐らく1991年の台風19号により崩れ落ち、十数年間放置されていたのだ。
当日は総勢19名、町石に二重にロープに括り付け、十数人がかりで斜面を引き上げる。
足場が悪いのでなかなか力が入らない、悪戦苦闘でようやく登山道へ、静かに横たえる。
但し、その日の作業はここまで、改めて立て直すのは、県の調査が終わってからということで、
少し心残りではある。仏様に合掌、大いなる功徳を積んだことになる。
さらに、120m先の倒れたままになっていた明治二〇丁町石----これも今秋の台風でか上部1/3の所で
二つに切断され、裏向けになっているのを 修復した。
(町石は まだ 倒れたままのもの、立てかけられているだけのものは 数基有り、
早急に対策する必要有りと感じています。)
◎《2005年9月台風土石流による町石の被害状況》
弥山登山道は3箇所で崩落・町石は8基被災
台風14号が弥山を襲った次々日(9/9・10)に大聖院から崩れた登山道を辿り、弥山参詣道と町石の被害状況を調べた。(危険地域にさっそく飛び込んだのは少々勇み足気味だったが)
まずは、大聖院にお見舞いに伺う。既に勅願堂裏手の土砂を取り除く作業にボランティアが汗を流している。境内は白糸川からの巨石と土砂・木々が 満福堂裏手まで被いつくしている。登山道は白糸の瀧まで約320メートルにわたり完全に失われている。大聖院の赤い橋も流され、仁王門階段横の起点道標は無事なものの
明治の一丁・二丁と元文一丁及び江戸初期の町石石仏を含めまったく跡形もない。
不動堂、滝宮神社は 完全に崩壊、高倉上皇の御幸岩から見る白糸の瀧は千二百年前に戻ったのか、
滝壺下半分の岩石が押しだされたため高さが倍以上にもなり雄大な姿に様変わりしている。
不思議なことにこの分岐(三丁)右への登り石段から里見茶屋跡のあずまや、中堂跡、賽の河原は
ほとんど被害がなく、最古の慶長八丁町石も含め十一丁まで 残っている。
安心したのもつかの間、突然登山道石段が崖下に崩れ落ちている。ここからは150メートルが再び失われている。 まさ土の斜面をよじ登ると、右手上に石段が見え再び登山道に太夫戻し岩までは(14丁手前)
辿ることができた。幕岩は土砂が落ち以前より大きく見える。
しかし今度は駒ヶ林の下から新しい谷が出現したように剥き出しの土石流が行く手を阻む。
水が川のように流れ土砂はぬかるんで歩きづらい。
海上から見えるよりも右手西、駒ヶ林の下を起点として(標高400メートル辺りか)土石流は発生している。
突端には4つの巨石、荒々しく森がえぐられている。
森の中を藪こぎで駒ヶ林頂上への分岐へ出て仁王門に至る。ここは平静そのもの。
今度は大聖院に下る石段を下りる。遊女石畳は上2/3は残ったものの万代橋・白髭明神のところで
駒ヶ林からの土石流に石畳道は押し流され崩れ去っていた。
十四丁まで80メートル崩落、町石は明治十二、十三、十四丁、元文十二丁の四基が谷底へ落ちたのか、
麓と合わせると合計8基を失ったことになる。再び登り仁王門から山頂へ、帰りは紅葉谷を下る。
此方は災害の痕跡すら感じない、ロープウェイからの観光客が普段と変わりなくやって来るのに出会う。
翌日は、カメラマン藤原隆雄氏と再び大聖院から登り大元道へ下る。大元道も奥の院も無事であった。
この日の収穫は明治二丁の町石の発見であった。元の位置から下へ10数メートル流され、
かろうじて白糸川に落ちる寸前、木に阻まれ止まっていた。
(後日9/17助力得て登山道まで引き上げることが出来た。
この土砂の下にはまだ多くの石仏や町石が埋まっていることを思うと胸が痛む。
歴史的には慶長も元文も明治の時期も大災害が起こるたびにお堂が再建され参道が修復され、
また惨事が起こらぬことを願って町石がその都度祈りを込めて建てられた。
今回も失われた参道と町石は「平成の町石道」として甦ることを願う。
そして、貴重な歴史遺産を守り、世界遺産弥山原始林にふさわしい景観を損なわない配慮のある
復興工事がおこなわれていくよう、声を大にして働きかけていく必要があると 感じる。
参考
《高野山町石道》弘法大師が開いた祈りの道
高野山町石道とは、弘法大師(空海)が高野山を開いた時、木の卒塔婆をたてて道しるべとした
参詣道である。
鎌倉時代になって、鎌倉幕府の有力御家人安達泰盛らの尽力で朝廷、貴族、武士などの
広範な寄進により朽ちた卒塔婆に代わって石造の五輪卒塔婆が建立され、
20年の歳月をかけて1285年に完成した。
尊院から高野山奥の院の御廟まで約24Kmの道のりに1町おきに
町石(慈尊院から伽藍まで180基、伽藍から御廟まで36基)と
36町ごとに里石(りせき)4基が立ち並んでる。
胎蔵界180剛界37尊として、上皇から庶民まで1町ごとに合掌しながら登山したこの道は、
まさに祈りの道、信仰の道であった。
平成16年「紀伊山地の霊場と参詣道」という名称で高野山町石道も
文化的景観(自然と人間の営みによって形成された景観)として、世界遺産に登録された。
町石めぐりについて
意外な場所で新発見
未発見の大元ルート3町石
右の写真、後ろに見えるのは休憩所。
どうしてこんな場所にあるんだろうと思う。昔、土砂災害があったとき、上流から流れ出ていたものを
当時の宮島町が、元の場所を確認しないで、見つけた付近に設置したのではないかと予想される。
1日も早く、元の場所に戻していただきたいものだ。
大聖院ルートの14丁石が今回の土砂災害で流失・発見・設置・・・・しかし、以前の場所よりも、50m近く上流に設置されている。
2006年
ご報告
無事終了しました。
4月22日(土) 第一回 町石を見る会(宮島弥山倶楽部主催)
先導者:岩崎義一(町石研究家)
参加費:1000円
集合場所:宮島側桟橋
集合時間:9:00
この会の目的は、欠落した町石の整備を行い。平成の町石として残したいという希望があります。
今回は、たちばな食堂の蒲田さんにお願いし、むすびを作っていただいて店の前を通過する時に、
受け取って出発しました。
今後、地元のお店にお願いをして、小さな接点作りをしたいと考えています。
参加予定者 岩崎義一・藤原隆雄・内藤達郎・上方尚美・山崎美和・SENSUI・松本滋恵・宮石惇・吉田正裕
村上光春・寺尾幸章・梅田正美・伊藤太志郎・田中雅子
仁王門から弥山本堂へ行く途中。山中に落ちていた16丁町石!
もみじ谷 何丁かは不明 岩崎さんに聞いて探して一番分からなかった町石です。
8丁と11丁の間にあります。
ロープウェーから弥山本堂への旧道にあります。
4月22日の町石めぐり
町石について
takao日記より
5時起床。7時には、メンバーの方を乗せて出発。五日市で本日の町石案内をする岩崎さんを拾って宮島に向かった。8時過ぎには現地に到着した。暫くして、財布を車に忘れていることに気がつき、船で対岸まで戻った。寺尾さんや村上さんも同じ船で戻った。9時前、すでにほとんどの方が集合、簡単な紹介をしてから、出発。地元の木村さんが、饅頭を持って陣中見舞いに来てくださった。1名欠席かとお思い出発したが、外で待っておられた。会員カードのお陰で分かった。商店街に入り、たちばな食堂に立ち寄り、弁当を頂き出発。ぎゃらりぃ宮郷のご主人も見送りに来てくださっていた。町屋通りに細い裏路地を通過して出た。ぎゃらぃ宮郷の前では、奥さんが見送ってくださった。もみじ谷に出た。まず、起点の石碑の前で話をした後、巻尺を持って、3町の町石までの距離を測った。土石流で流されので、正確な場所にはないだろうというのが見解だったが、やはり、500m近くあったので、170m弱の誤差があった。その後も計りながら、ゆっくりと登った、石碑にある桜岩、屏風岩、もみじ橋、大黒岩などを勝手に認知した。ひび割れ岩が屏風岩ということになった。何町か分からなかった町石も。10丁と認定された。20丁も探したが、分からなかった。ロープウェーとの分かれ道につく頃には、雨も降り出し、足元も悪くなったが結局、全員旧道を登った。弥山本堂で、大聖院の湛海さんに説明をしてもらい、昼食をとる。その後、集合写真を撮って頂上に向かった。別のルートを通過して大日堂の前にある、最古の町石を見た後、仁王門の分かれ道で解散。ほとんどの方が、大聖院ルートの遊女の道を見るためにこのルートを下山。そのまま、大聖院に向かった。途中、なくなったと思われていた、13町があった事を喜んだ。
起点から3丁までの距離を計りました。
ご神木、以前はしめ縄もしていました。
ほとんど知られていません。もみじ谷にあります。
岩の上に生えたもみじ
3丁石で説明をする岩崎さん
起点からの距離が、500m近くあり、起点の石碑は、60年前の枕崎台風の土砂くずれで、
後日、移動いたものと思われることが分かった。
ちなみに、1丁は109m
この辺に、町石はあるのだろうかと、50mの巻尺を使って計測。
今まで、上の部分がなくて不明だったものが、10丁石と判明。
今は、このようは標識が立っている。
18丁あたりにあると起点の石碑に記載してあった
大黒天の岩は、コレだろうということになりました。
ロープウェーの分かれ道の手前100mくらいの道、右側にあります。
すでに、この頃は大粒の雨が降ってきていましたので
カメラは、バックの中にしまいました。
今回、最長老の伊藤さん82歳がしんがりを勤められました。
霊火堂の火を守る、大聖院の僧侶湛海(たんかい)さんの説明を聞きました。
皆さん、交代で弥山を守っています。
左から 村上さん・岩崎さん・寺尾さん・吉田住職・梅田さん・内藤さん・田中さん・上方さん
SENSUIさん・伊藤さん・宮石さん
下左から
湛海さん・藤原・山崎さん・松本さん
総勢 15名(湛海さんを含む)
この背景は二度とない景色とばかり、雨の中で決行されました。
岩崎さんからのメール
今日の測量結果を まとめておきます。
取り急ぎ 記録メモだけで 申し訳ありません。
◎紅葉谷公園起点から 防火標識まで 466m
3丁は 起点より 542m (防火標識より 76m)
3丁〜4丁 104m (起点より 646m)
従って 現在の起点は 本来の起点215m手前に 動かされた
8丁〜 (9丁無し)〜 10丁 〜 11丁
212m 105m
従って 上がかけた町石は 10丁であると 確認された
19丁 〜 (20丁無し) 〜 21丁
220m
残念ながら 20丁は発見出来なかった
◎
4丁桜石は 川中の石か
7丁屏風岩は ひび割れ石か
7丁半 紅葉滝 確認
14丁 天然橋 確認
18丁 大黒天 確認
◎大聖院ルート
昨年台風で流失したと思っていた 明治13丁町石は 存在が確認できた(被害無し)
従って 未発見6基 現存71基
************
岩崎 義一
当日参加された、内藤さんからのご案内
ここをクリック
お弁当を作ってくださった、たちばな食堂の蒲田さんから
ご無事の下山何よりです。
お風邪など召しませんよう・・・温かくしてお休みくださいませm(_ _)m
お疲れ様でした。
蒲田
もみじ谷をのぼり、ロープウェーと合流して50mくらい行くと
右手に急勾配の坂があります。ここが旧道の入口、
しっかり登ると、なだらかな道が、弥山本堂の下まで続くきます。
ここには、21丁石があります。
今回、巻尺を使いこの辺に20丁石があったのではないかと思われ
標識代わりに、藤原が立ちました。
5時起床。準備を済ませて、7時出発。途中岩崎さんを拾って宮島に向かう。途中のコンビニでカッパズボンを購入。今もっているカッパでは、座ることができない。8時30分集合場所に到着。すでに2名の参加者は待機。雨の中なので、参加者は少ないが、前回も雨の中を参加しているので、気にしていない様子。中国新聞社の記者を含めて、9名で出発。私一人は、大聖院へ向かい、他の方とは、清盛茶屋で合流。大聖院では、18日の倒木切断の打ち合わせに行った。少し小さいので、奥の院の倒木をみて決定することにした。雨の中を、大元ルートを登った。今のルートではなく、旧道にある、1・2丁を見ながら、3丁を探したが発見できず、4丁から通常ルートに戻り登る、雨のため森は気持ちが良い、MAPにあるポイントを探しながらのんびりと登る、11丁辺りから苦しくなるが、82歳の伊藤さんも元気に登る。弁財天の岩場を見たり、岩屋大師に中国新聞の記者を案内。18丁のありそうなところを、17丁から巻尺を持って当りをつけるが発見できず。尾根に出たところで、13時前、昼食をとる。霧が出ていて美しい。その後、仁王門の4つ角まで出て、奥の院へ下る。途中に町石の説明を受ける。皆が奥の院へ行っている間に、少し下った場所にある倒木を撮影後、皆に合流し集合写真を撮る。
5月13日 大雨の中を登ってきました
2004年7月4日撮影 2005年10月2日撮影 2006年5月13日撮影
探検隊結果
5月13日 大雨の中を登ってきました
2004年7月4日撮影 2005年10月2日撮影 2006年5月13日撮影
探検隊結果
5月13日(土) 第二回 町石を見る会
先導者:岩崎義一(町石研究家)
参加費:1000円
大元ルートを登り、奥の院へ下り解散。
参加者 岩崎義一・山崎美和・梅田正美・藤原隆雄・松本滋恵・宮石惇・伊藤太志郎・西記者(中国新聞社)
当日のむすびは、清盛茶屋の岡田さんにお願いしました。
大元ルートの3丁があったと思われる場所にマーキング
左の道を行くと、4丁の普通のルートに出る。(小川を渡る)
右の道を行くと、峠を越えて多々良林道へ出る。多々良林道を横断して、直進をすると、尾根に出る。右に回り尾根にそって行くと
陶晴賢の石碑や岩船山に行ける。左に回っていくと、少し分かりづらいが、奥の院の上に帰ってくる。
倒れている 9丁
この町石を立てるのに、行政の許可がいるそうです。
まだ、命名はされていない大きな岩。屏風岩?
10丁があるはずの場所の確認。
霧の中、11丁あたりの不思議な岩。
大聖院ルートにあわせて、太夫戻し岩?
尾根の近く、18丁のありそうな場所
この辺は、2年前の台風で相当に被害を受けています。土砂崩れのため道は寸断されています。
今にも崩落しそうな町石。
この下は、崖なので、落ちてしまうと拾い上げるには大人10人くらいの人手が必要となる。
後ろ 左から
岩崎さん 宮石さん 梅田さん 伊藤さん 西さん(中国新聞社)
前左から
松本さん 山崎さん 藤原
奥の院にて
奥の院31?28?町石にて
町石について ここをクリック
岩崎義一 さんから 「このHPに自分の研究の成果を掲載して、皆さんに知って頂きたい。
今から充実して行きますのでよろしく、楽しみにしていてください。写真や資料も掲載予定です。」
2006年
岩崎義一情報
7月22日 岩崎・梅田探検隊報告
堰堤工事現場
大元道18町尾根
やけ焼山からの景色
焼山頂上------------イタズラ? 警察官立ち寄り所
焼山頂上 487メート
焼山分岐 前峠乗り越え
多々良林道の焼山への入り口
川の中に 放置された 古い案内看板------------多々良林道 岩船分岐
仁王門から 奥の院
岩崎さんから
入浜
鷹ノ巣砲台 大砂利地蔵
宮島の 大砂利地蔵から鷹ノ巣砲台へ 歩きましたので記録を お知らせします。
面白い ルートでした。
◎
6/24
桟橋 〜 博打尾 〜 大砂利別れ 〜 大砂利地蔵 〜 大砂利浜
9.00 9.40 10.10 10.20 11.20 12.20 1.10
〜 腰細浜 〜 入り浜 〜 鷹ノ巣砲台への道探索
1.20 1.35 2.30
〜 車道 〜 鷹ノ巣砲台 〜 包ヶ浦への尾根道 〜 包ヶ浦
3.30 4.00 4.20 4.40 4.50
〜 博打尾 〜 紅葉谷公園 〜 桟橋
5.30 5.50
大砂利地蔵から大砂利浜までは 赤テープで ルートは判るものの一部 シダで覆われ、 かなりの難路。
梅雨時の為 水量が多く 大砂利地蔵の滝は 見事でした
入り浜から鷹ノ巣砲台への道は 登り口に 目印があるものの、 (以前 PVで整備したもの)
ルート定かでなく、 直登は 諦め 車道を 行く。
逆に 鷹ノ巣砲台から 入り浜に降りる所は 赤テープがあり、道も 判りやすい模様。
鷹ノ巣砲台から 包ヶ浦への尾根道は 容易に歩ける。
包ヶ浦自然公園から紅葉谷公園への看板 スカイ歩道 50分となっているが、
あくまで登山道、並の足では 50分は無理、
公園から公園への歩道と勘違いして 去年の ビキニの外人が 登ってきたのでしょう。
大砂利から 獅子が谷展望台を見上げる。フェンスの脇を下る
野呂山に登山し、 弘法寺に行ってきました。
ここも 名のとおり 弘法大師が開いたお寺、 麓から町石が 並びます。
(何基現存するのか お寺は 何町にあたるかなど、問うも 資料無し。)
この日は 頂上付近のものだけ 見てきました。文字が読みとれません。
世話役の女性に 弥山の町石との類似を話したところ、 総代の人に 問い合わせてみるとの事でした。