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遍路先頭ペ−ジに戻る

四国霊場八十八ヶ所 歩き遍路旅日記


2003年5月8日(木) 6210歩晴れ

宿泊地 旅館 かどや 〒779-02 鳴門市大麻町西山田8 tel 0886−89−0705

歩数 6210

広島駅から岡山経由マリンライナ−で高松へ。徳島の手前の板東下車

一番札所の前に宿をとる。

宿泊地 旅館 かどや 〒779-02 鳴門市大麻町西山田8 tel 0886−89−0705


1日目 23031歩

2003年5月9日(金)晴れ

札所 1 竺和山 霊山寺  2 日照山 極楽寺 3番 亀光山 金泉寺 4番 黒厳山 大日寺 

5番 無尽山 地蔵寺 

いよいよ第一歩。前日門前に宿泊して、必要なものを買い揃えたので、すんなりと1番札所に行くことが出来た。緊張の瞬間であった。もちろん作法も判らないので、お寺の方に聞いてお参りを始めた。般若心経もうまく言えない。まわりの人は、うまく読んでいるので声が小さくなる。納経所に行き、最初の納経をしてもらう、着ていた白衣にも朱印を押してもらう。門前を横を通過して、2番札所に向かう。歩き遍路さんの数は、かなりいた。1.2km程なので30分もかからずに着いた。なかなか腰が落ち着かない。2番札所で掃除をしていた婦人を撮影した。もちろん許可をもらった。話しをしていると、突然 錦・金・銀の札をお接待として下さった。併せて2000円の現金を渡された。代わりに88ヶ所を回って欲しいということだった。最初の出来事に、相当戸惑いながら住所を聞いて、写真を送ること約束した。田んぼのあぜ道がお遍路路になっていた。愛染院3番札所の奥の院。ここでも、婦人にご接待を受けた。1年玉20枚あった。住所を聞き後日写真を送ることにした。昼食に門前のうどん屋に入って食べた。コ−ヒ−がお接待と称してついていた。数名の歩き遍路がいた。宿には、思わぬほど早く到着。5番札所と6番札所の中間地点。1番に到着であった。距離が短すぎたのだろう。普通は、もっと行くらしい。のんびりと半日を過ごした。

宿泊地 民宿 寿食堂 〒771-13 板野郡上板町七条大道ノ上13−1 TEL 0886−94−2024


 2日目 35912歩

2003年5月10日(土)晴れ

札所 6番 温泉山 安楽寺 7番 光明山 十楽寺 8番 普明山 熊谷寺 9番 正覚山 法輪寺 

10番 得度山 切幡寺 11番 金剛山 藤井寺

6時30分には、出発。6番札所安楽寺には、まもなく着いた。7.8.9.10番札所は、短い距離の中にあった。少し歩くと着く。池に鯉のたくさんいる6番札所。竜宮城のような山門のある7番札所。山門に威厳のある8番札所。9番札所の法輪寺は、迷いながら到着、山門付近では、お遍路さんが托鉢をしていた。遠巻きで撮ってから、撮影許可を申し出たが断られた。そうだろうなと自分で思いながらあきらめた。自分がその立場なら断る。まだまだ、自分がお遍路さんになってないのがよく分かる。道もまだまだ要領が判らず、迷ってしまう。次の10番を目指す時、出口で方向を失う。はじめての山岳寺に遭遇。やっと到着したら、山門から階段が333段続く。中国の青城山のお寺を思い出す。着いていたロ−プウェイを世界遺産にしてもらうために、全部はずしてしまいお参りの人は、延々と階段を登らなくてはならない。お遍路さんが集まっていた。どんな人たちが歩いているのか判った。そろそろ顔なじみの人が出来てきた。下山して11番藤井寺に向かう。9.8kmの距離を歩く。これも初体験である。今まで、広島で1度だけ練習した長丁場が11km。これに匹敵する距離を歩くことになる。やはりつらい。河川敷のような場所を歩き、川を渡って行った。あたりには、歩き遍路さんが大勢した。こんな感じで最後まで行くのかなと、ふと思った。11番札所の藤井寺も山手にあった。まず、今日ここにお参りをしてから、明日の本格的な山岳道に挑戦することになる。休憩をしていたら、地元の若者と自転車で回っている若者に話しかかられた。自転車も登りが結構大変らしい。近くの宿が、一杯で断られたので、離れた駅前のビジネスホテルに予約をとったので、ここからタクシ−に乗ってホテルに向かった。1000円弱。ホテルには、洗濯機がないので、近所のコインランドリ−に行って洗濯・乾燥をした。時間がかかる。その間、マクドナルドに入り間食をする。ホテルは、駅前の高級ホテルだった。明日の朝食もコンビニで買い揃える。朝食は時間が遅いので、断ると代わりにお接待と言って、明日の山頂での昼食としておむすびを夜のうちに準備してくれた。不要な荷物があったので、宅配便で広島に送り返した。結構荷物の重量が気になる。風呂が部屋にあるので、のんびり出来た。靴が窮屈なので、テ−ピングンに気をつけた。6時にタクシ−の迎えを頼んでおいた。

宿泊地 セントラルホテル鴨島 〒776 麻植郡鴨島町鴨島471−2 TEL 0883−24−8989


 3日目 26682歩

2003年5月11日(日)

札所 12番 摩廬山 焼山寺

6時過ぎ、ホテルの玄関にタクシ−が迎えに来てくれた。昨日タクシ−に乗った場所にもどってもらう。途中、歩いて藤井寺まで行くお遍路さんを見かけた。雨がかなり降っていた。今日は、苦戦するだろうと思う。標高140m藤井寺から山登りが始まる。510m400m625m500m740m400m700mと13km余りの距離ではあるが雨の中をかなりの急勾配を4回登って行く。そして、3回下り。多分初めての経験ではあるが、苦しい道のりであった。残りの登りになると、ある種の悟りのようなものが出てきた。急いで息を切らすと辛い。ゆっくりと息を切らさないように歩幅を狭くして、自分の足の位置を確認して登って行くと、最初の登り道よりもはるかに苦しくない。痛み止めの薬を飲んだ時のように苦しさが少し減る。最後の坂道を登り、雨(霧)の中で本堂に向かうが、バスで来た人たちがうるさくしているので、気が散ってしまう。少し時間をずらすために近くのベンチで休んでいると、プロのカメラマンに写真を撮ってもいいかと聞かれた。ちょうどいい被写体に見えたのだろう、OKをすると2枚くらい撮って行ってしまった。お参りを済ませ、お店に入り温かいうどんを食べた。一緒に登って来た人たちは、お店の中で着替えをしていた。私は、ポンチョの中のシャツ等も雨と汗でびしゃびしゃになってしまい着替えのしようがなかった。ひたすら、今度は、体温でどこまで乾かせるかが問題となった。ズボンも雨対策を考えずに、カ−ボ−イスタイルの雨具にしたため、足下は問題なく防水してくれたが、肝心のお尻あたりは、何の防備もないので、途中濡れた岩場や木の根本にも腰をかけることが出来ず、濡れたまま立ち尽くすしかなかった。お寺のベンチやお店でやっと座ることが出来た。とにかく寒い。お店で、うどん・お茶で暖をとり、早々に下山を始めた。当初、焼山寺に宿泊する予定だったが、相部屋ということだったので、急遽4km下山した宿に変更した。かなり長い道をだらだらと標高300m下ったところに、なべ岩荘があった。宿の管理人は、少し変わった人だったが、いい人で親切にしてもらった。施設もなかなかでこの旅の宿のベスト5に入るのではないかと思う。ここで一緒に宿泊した人たちが、しばらく同じグル−プで旅することになった。まだ、名前までは覚えられない。とにかく寒い1日であった。この宿は、企業の保養施設だったようだ。

宿泊地 なべ岩荘  TEL 0886−77−0181


 4日目 38590歩

2003年5月12日(月) 晴れ

札所 13番 大栗山 大日寺 14番 盛寿山 常楽寺 15番 薬王山 国分寺(怖い場所があり、塩を置く)16番 光耀山 観音寺 17番 瑠璃山 井戸寺

なべ岩荘を6時30分出発。山の中を延々と歩いた。21.5km。深い山の中腹を歩く。途中、遍路道には木橋があり、しばらく待ってお遍路さんを入れて撮った。この辺になると、脚力の差が出てくる。早い人は、どんどん先に行ってします。抜かれるのは悔しいが、体力の差は仕方ない。そして、歩くことに神経を集中すると、写真が撮れないことに気がつく。1時間歩いて、10分休むようにする。靴を脱いで靴下も脱ぎ足を冷やす。遍路道は車が少ないので歩きやすい。人と出会うこともないので、写真を撮るには不都合。一部の人は、距離は長いが国道を通って13番札所大日寺に向かった人も数人した。郵便局とか買い物が出来るのが理由のひとつと、昨日の焼山寺がかなりきいている。道自体は車道で思ったより早く昼過ぎには13番札所大日寺に着いた。宿は目の前にあった。有名な場所なのか、どこかで見たことのあるお寺だった。ここで、柴田さん金沢さんの写真を意識して撮った。お遍路さんを撮り始めた。納経後宿に行ったが、宿の主人が、時間がもったいないので17番へ行き逆打ちで宿にもどるよう勧めてくれた。足の爪が裂けて、かなり損傷がひどいので、病院に連れていってもらうことになった。他の人たちは、17番付近に宿をとっていたので、逆打ちの私とは、途中で会った。17番札所井戸寺は朱門の派手な寺。観光バスがたくさんいる。荷物を宿に預けて身軽になったのは良かったが、予備のフィルムを持って来るのを忘れた。仕方ないので、しばらく歩いてカメラのキタムラに買いに行った。今回持参のトライXはなく、新型のT-MAXしかなかった。仕方ないのでT−MAXを3本買った。16番札所観音寺は、街中にある小さな札所。山門がかわいかったので撮る。バス遍路さんが多く、早々に引き上げた。道は、宿のご主人が来るまで送ってくれたときに聞いたので判った。金沢さんと16と15番の間で会った。15番札所国分寺は、さすがに貫禄のあるお寺であった。国分寺の手前のお寺は、怖かったので、持参の塩をおいてお参りをした。14番札所常楽寺は、札所が岩盤の上に立ててあるようで、荒々しさ出ていた。境内は岩盤が露出していた。相変わらず団体バスのお遍路さんが多く、静かに回ることが出来なかった。宿の主人は宇品の商店街の会長の山秀さんにそっくりなので親近感を覚えた。病院に連れていってもらったが、ご主人はいったん広島に帰ることを勧めた。私としては、壮行会までしてもらってるので、帰るわけにはいかず。何とか旅が続けられるよう先生にお願いして、薬をもらった。1日20kmくらいならなんとか歩けるだろうと言われた。薬は、茶色いイソジンという消毒薬。軟膏はリンデロソ−VG。これを毎日つけるよう言われた。爪はすでに死んでいるので、そのうちとれるだろうということだった。それからは、毎日30分くいかけて、爪の手入れをしながら旅をする事になった。宿の料理も立派で、食事に不安はなかった。ただ、トイレの心配がありしばらく便秘が続いたので、牛乳1リッタ−を買って来てもらい、一本一気に飲み干し、その晩は、トイレがよいとなった。奥さんの親切な方で、いろいろ心配してくださった。接待と言って地図も下さった。翌日、出発目に、お礼に記念写真を撮った。送る約束をした。ショ−ケンも宿泊したらしい。自慢話が出た。

宿泊地 名西旅館 〒779-31 徳島市一宮町西丁234 TEL 0886−44−0025


 5日目 27431歩

2003年5月13日(火)晴れ

札所 18番 母養山 恩山寺 19番 橋池山 立江寺

前日17番札所井戸寺まで行っていたので、病院に立ち寄った後別の道を通り18番に向かう。みんなと違う道を歩いているので、車で走っている人が、わざわざ車を停めて教えてくれた。赤信号で停車した車から、女性が出てきて゜お接待です」とオロナミンCを下さった。恩山寺では、お寺への道すがら写真を撮らせてもらおうとお願いしたが、恥ずかしいと言って断られた女性がお参りに来ていた。階段ですれ違ったので、挨拶をしたが、すれ違いざまに「これを」と言って1000円を差し出された。「良いんですか?」気がとがめた。「これも、ご縁ですから」と言ってお金を握らせると行ってしまった。「必ず、回りますから」と背中を見ながら誓った。大金だろうに、託されてしまったという責任感のようなものを感じてしまった。「絶対に回るぞ」このお寺は、岩盤に建てられたようで、地面は岩がむき出しになっていた。今晩は、宿坊に泊まることになっていたので、19番札所立江寺ものんびりとお参りできた。立派な宿坊で、大広間に布団がいくつも引いていて、好きな布団で眠ることが出来た。宿坊の女性も親切で、洗濯機の使い方や団体さん以外が入れる風呂も案内して下さり、のんびり出来た。このあたりから、まわりの人たちが決まって来たような気がする。次の宿の、情報交換などをして、申し込みをした。同じ宿をとる人が増えた。地図には距離が書いてるが、高低差などの状況が記載していないので、なかなか宿の決定が難しい。みんな、よく調べて来ている。わたしなんか、白紙状態で来たので大いに参考になった。自分の脚力の能力も、そろそろ把握でき、まわりとの比較が出来るようになった。

宿泊地 橋池山立江寺(宿坊) 〒773 小松市立江町若松13 TEL 08853−7−1019


 6日目 29826歩

2003年5月14日(水)

札所 20番 霊鷲山 鶴林寺 21番 舎心山 太龍寺

20番札所鶴林寺まで雨の中平地をだらだらと歩き続け、一気に20番に登って行く。結構苦しい登りが続く、やっとお寺に着くが、今度は下山。そして降りたところで、次の21番札所太龍寺を目指して登って行く。精神的には辛い。多分、全体の中でも辛い道のベスト10には入るだろうと思う。この辺は宿がないので、下山してから6km位山道を歩き宿に着いた。中国の四川省の宿を思い出す。相変わらず雨の中の行軍なのでずぶぬれ状態。宿では、靴に新聞紙を入れて水分をとる。洗濯機にみんな殺到して、洗濯・乾燥を済ませる。あとは、宿でごろごろしながら夕食を待つ。携帯電話は届かない。太龍寺は相当格式が高いのだろう、霧雨の中に立つ建物は、威風堂々としたものがあった。中国を思い出す。真言宗自体が、中国から弘法大師が持ち帰ったものなので、中国の色が色濃く残る。だいぶメンバ−が決まって来ているので、家族のような雰囲気がある。電話が通じないので自宅には、定期連絡を入れなかった。NHKの番組である宮本武蔵。雨の山中を歩き、一軒の家を見つけて一夜の軒下の宿を頼むシ−ンがある。自分が歩いてみて、雨の降ってこない場所の大切さを痛感する。今の時代ポンチョがあるので、直接雨に濡れることはない。昔は簑で雨をしのいでいたのだから、相当に冷たい思いをしたことと思う。まして、夜月明かりもない山中は、真っ暗。以前、広島の極楽寺へ行った時、住職と話し込み、帰る段になり、山中を明かりもなく歩こうとした時、鼻先も見えない経験をしたことを思いだした。

宿泊地 民宿 龍山荘 〒771-51 阿南郡加茂町黒河6 TEL 0884−25−0658


 7日目 41252歩

2003年5月15日(木)雨のち曇り

札所 22番 白水山 平等寺 23番 医王山 薬王寺

朝、朝食の時、女将さんが「ごめんなさい、昨夜、藤原さんに電話が入ったですが、宿泊していないと言ってしまいました。」携帯が届かないので、そのまま放置していた。途中、かなり深い山の中で、突然携帯が鳴った。東京の娘からであった。父さんが行方不明になったので大騒ぎになっている。どこの宿にも泊まってないので、山中で倒れているのではないかと言うことになり、警察に捜索願をだすと言っている。」ということだった。よく、こんな山中に携帯が届いたものだが、無事であることをみんなに伝えるように頼んだ。携帯の会社によって届きかたが違うようだ。都合で立ち止まると、どんどん抜かれていくので、立ち止まりにくいのが実状であろう。遍路道は、細く深い森だった。山の中から海岸線に出てきた。やはり雨。なんとなく、お遍路さんも疲れているのか、ほっとしているのか雰囲気が変わって来た。山岳の遍路道を歩いて平地に着いた感じ。しかし、標高は110m。22番札所平等寺。バスお遍路さんも多い。この札所は、階段にお賽銭の1円5円玉が散乱状態でおいてあった。不思議な感じがしました。ここから薬王寺まで、国道をひたすら20km歩く。軽い下り。23番札所の薬王寺は格式が高いのか、威厳のようなものを感じた。薬王寺の宿坊に宿泊したかったが、満室と言われて断られた。仕方ないので、1km離れた国民宿舎にした。少しもどるので迷ったが歩いて行った。国民宿舎のある場所は、ウミガメの産卵地で有名らしい。波が高く海岸でしばらく写真を撮った。砂浜である。

宿泊地 国民宿舎 うみがめ荘 〒779-23 海部郡日和佐町大浜海岸 TEL 08847−7−1166


 8日目 27401歩

2003年5月16日(金)晴れ

奈良の大川さんと小倉の波多野さん。二人連れの若い女性たち。頼んで撮影を開始した。当初はいやがっていたが了解してくれた。ここで初めてお接待所というものに出くわした。道路のそばの広場に、テントが張ってあり、そこにお遍路さんが、数人いて情報交換をしていた。交代でお接待をしている。ちょうどいい場所にあり、疲れて休もうかと思う処にあるのは、ありがたかった。岸本親子や井手さんや落合さんもいる。距離をとってなかったので、ゆっくり歩いても、昼過ぎには民宿に到着した。久しぶりに1人で、大きな部屋で昼寝をすることが出来た。宿のご主人は、話し好きで長い間、部屋に来てお遍路さんの事などを話してくれた。行き倒れ遍路さんのことも聞いた。歴史の中に埋もれてしまっているが、先祖にお遍路に行ったきり帰って来なかったと、連絡を受けた子孫がお参りに来ることもあるそうだ。

接待所 海部郡牟岐町中村字奥前34−3  長谷川 満枝(82歳)

宿泊所 民宿 内妻荘 〒775 海部郡牟岐町内妻丸山3 TEL 08847−2−1674


 9日目 21803歩

2003年5月17日(土)晴れ

23番札所から24番札所までの間は、86kmありお寺はない。ひたすら海岸線を歩くだけ。途中番外の鯖大師に立ち寄りお参りをする。まわりには誰も歩いていない。お接待所があった。ここも有名な場所らしい。金沢さん大川さん波多野さんが立ち寄った。お菓子などをだしてもらって、しばらくくつろいだ。かぶっている傘の具合が悪いというと、金沢さんが「私は、新潟の出身で昔は、よく作っていたからまかせなさい。」と言って、かぶりやすいように改造してくれた。今までは、ただはずれないようにひもを停めていたので、風が吹くとがたがた前後に揺れて飛んで行ってしまいそうだったが、これで安心して歩ける。室戸は風の強いところ助かった。二人の婦人が手厚い接待をして下さった。金沢さんの傘も、修理して下さった。みこと国民宿舎は国道から2kmも離れているので、国道まで送迎をしてもらった。2時過ぎにはついたが、融通が聞かなく部屋に入れてもらえなかった。温泉で泉質はなかなかよかった。民間営業なら持って繁盛するだろうにと思う。道の駅があるからと聞いていたが、見過ごしてしまった。バブルの時代のリゾ−トホテルに隠れて見えなかった。このホテルも第3セクタ−の経営らしい。みこと荘の景色は、山の頂上にあり抜群によかった。洗濯機等がないので、歩き遍路さんには不便である。

接待所 徳島県海部郡海南町四方原 (阿波海南駅付近)  野村カオリ 丸本益乃

宿泊地 みこと荘国民宿舎 〒775-02 海部郡宍喰町古目84−14 TEL 08847−6−3150


 10日目 35282歩

2003年5月18日(日)  晴れ

朝、昨日迎えに来てくれた場所まで送ってもらった。単調な海岸線をひたすら歩く。今までは、それでも街並みがあったが、自販機すら無いような無人の海岸線が続く。太平洋ではあるが、佐渡の海を思い出させてくれる。歩き遍路さんもこのあたりになると、減ってくる。何のへんてつもない海岸線をひたすら3泊4日とか4泊5日で歩く。早い人は、2泊3日で行くらしい。私は、そんな体力がないので、3泊4日で行くことにしている。民宿の尾崎荘は、こじんまりとした夏の海岸にある民宿といった風情。美人女将風の女性が切りもりしている。部屋は3畳程度。布団を引くと狭い。距離を歩いていないので、たいてい昼過ぎについてしまう。もう少し長めにしたほうがいいのかと考え出す。いつも一緒になる金沢さんは、もっとのんびりと歩いてくるので、切迫した気持ちにはなれない。早い人は15km位先の民宿に泊まっているはずだ。2組の夫婦が同じ日に宿泊していた。歩くぺ−スの配分が大変だろうと思う。進行方向には、夫婦岩が雨にかすんで見えている。

民宿 ロッジ尾崎 〒781-72 室戸市佐喜浜町尾崎708−3 TEL 08872−7−2065


 11日目 36341歩

2003年5月19日(月)小雨のち曇り

札所 24番 室戸山 最御崎寺 25番 宝珠山 津照寺 26番 龍頭山 金剛頂寺

雨の中、夫婦岩見物して、室戸岬を目指してひたすら歩く。雨が降る。やっと室戸に着いたが24番札所まで山を登って行かなくてはならない、これが結構急な階段で相当の力を失った。お寺はなかなか古く質素でいい感じではあった。がここからまた平地に向かって車道を九十九折りで一気に下って行く。眼下には室戸市内が見えた。ここからは旧道らしき道を歩いた。左手には、バイパスのような大きな道があったが、お遍路道に指定されている旧道を歩いた。遍路道の方が、その土地の文化が見える。小走りに抜き去った、お遍路さんがいた。津照寺は階段が印象に残った。今夜の宿でもある金剛頂寺への道は、林の中を抜けていく険しい遍路道だった。昼間なのに薄暗く、鳥肌の立つような場所もあったので、塩を少しおいていくことにした。鳥肌が立つほどの林でした。宿坊は、なかなかきれいなところで、二人の相部屋ではあったが気持ちのいい夜を過ごすことが出来ました。

宿泊地 龍頭山金剛頂寺(宿坊) 〒781-71 室戸市元崎山乙523 TEL 08872−2−0378


 12日目 48185歩

2003年5月20日(火)曇りのち晴れ

札所 27番 竹林山 神峰寺

朝、最短距離の道を聞いて山を下って行った。遍路道で道は細く、ぬかるみ急勾配を滑るように歩いた。海岸線に着くと、今度は海岸線を歩く。海岸線にある堤防の上を歩いて行った。国道では、堤防が高すぎて、海が見えない。バス停で、ピアスをした学生にあったので写真を撮った。なかなか地図通り着かないので、ストレスがたまったがなんとか着いた。予定よりは宿には早めに着いたが、これから札所に登った方がいいと、女将さんに言われて荷物を最小限にして登った。この山が結構大変な山で消耗した。急勾配の坂道を1時間以上登ることになった。予定では、明日の朝1番で登る予定にしていたので、ゆっくり到着して登らない人が出た。ここで今後の動きに微妙に影響が出た。若い女性の大川・波多野の両人もがんばって登って来た、足の悪い岸本親子も登って来た。途中で、自転車で回っているお遍路さんにあった。登りが大変らしい。苦戦していた。歩きだったが、膝を痛めて自転車に変更して旅をしているとのこと。予想をしていなかった山なので疲れがストレ−トにきた。登り下りで2時間半。お寺に入ってからの階段もかなりあった。山岳にあるお寺なので、当たり前のことではある。落合さん金沢さん柴田さんも同宿であった。そのほか、数名いたが、名前を覚えるまでにはいかなかった。頑固な柴田さんは、夕食の座る場所が気に入らないと言って、女将さんを困られた。どうして、そこまで意地をはるのか判らないが「ここに座れないのなら、夕食はいらない。」とまで言った。夕食後は、足の指の手入れに時間がかかった。

宿泊地 浜吉旅館 〒781-61 安芸郡安田町唐ノ浜 TEL 08873−8−6589


 13日目 42032歩

2003年5月21日(水)晴れ

サイクリングロ−ドがあったが、単調で人に会うこともないので国道に出た。道は歩きにくいが街並みが見れて面白い。遍路道の途中にトンネルがあってそこで、遍路姿の人の逆光写真を撮りたかったが、ついに誰も来なくあきらめた。残念なので通行人の人に頼んで私を撮ってもらった。その人は、広島に知り合いがいるからという話しになったが、刑務所仲間で、名前を言って知っているかと聞かれたが分かるはずもなく、そのうちサイクリングの若者たちが来たので一緒に記念写真を撮った。大きな鯉のぼりと大漁旗がなびいていた。この地方では、男の子が産まれると、里の奥さんの里が用意してお祝いをする習慣があるようで、このことは今後各地でも見られた。なかなか勇壮である。旅館は、かなり大きな建物で、別館に泊まったが、お風呂もゆったりとしていた。食事は、街道に面した食堂で食べた。岸本の親父さんが、夕方ぼろぼろになって宿に着く姿が部屋から見えた。4組位のお遍路さんがいた。

宿泊地 旅館 かとり 〒781-52 香美郡野市町東野ネの丸 TEL 08875−5−3133


 14日目 36969歩

2003年5月22日(木)晴れ

札所 28番 法界山 大日寺 29番 摩尼山 国分寺 30番 百々山 善楽寺

小路を抜けて28番に向かう。大川さん波多野さんたちともあう。結局トンネルまでは、昨日来ていなかったらしい。その分、朝早く宿を出たらしい。大日寺で、最近一緒になる人たちと一緒になった。金沢さん落合さんもいた。二人は神峰寺に着いたのが遅く、結局翌日登った為、私とは次の宿が違ったが、追いついてきた。なかんかみんなで一緒になることはないので、記念写真を撮り、お互いの身分や連絡先を教えあった。大きな川を渡った。鮎を釣る人たちがいた。しばらく行くと、遍路無料お接待所があった。みんなよく情報を知っている。そこでしばらく休んだが、スピ−ドが違うので、バラバラになっていく。29番国分寺では、若い女性軍や孝太郎君や柴田さんに再び会う、お寺を出てしばらくすると、柴田さんが一番身近にいたが、いつの間にかはぐれてしまった。遍路マ−クもない。道を聞いた通りに進むが、後方を見てもまったくお遍路さんの姿がない。やっとあったお店に入って聞くと道を間違っているとのこと、このまま進んでも着けるが大回りをして30番札所に着くことになる。もどるのは、来すぎている。仕方ないので、前に進んだ。「間違えて聞きに来るお遍路さんは多い。」とお店の人に言われた。どうも、販路マ−クを見落としたらしい。30分ほどかかった、30番札所善楽寺に着いた。すでにみんなは、納経も済ませて出発するところだった。山越えの道があったらし。一山筋を間違えたことになる。宿までは、間違わないように柴田さんと行くことにした。さっき来た道をもどり、途中から川に沿って高知市内に入ると大きな建物があった。宿は、はじめてホテルに泊まったという実感。洗濯は、建物の外のコインランドリ−まで行かなくてはならなかったが、国民宿舎を思えば贅沢は言っておれない。

宿泊所 サンピア高知 〒780 高知市高須155 TEL 0888−66−7000


 15日目 30753歩

2003年5月23日(金)晴れ

札所 31番 五台山 竹林寺 32番 八葉山 禅師峰寺 33番 高福山 雪蹊寺

暑い一日だった。高知市内を通過して行く。ホテルを出発する。ここで、連泊して休養をとる人が多い。私は、休むと身体が動かなくなる可能性があるので、前に進むことにした。今まで一緒旅をしていた人たちと、多く離ればなれになった。金沢さん落合さんそして女の子二人ずれ。今までは宿が違っても、お寺でたいてい会うことが出来たが、ここからはそれが無くなる。世田谷の柴田さん岸本親子は出発しので、今後しばらくは一緒に旅することになりそう。といっても宿が一緒かお寺で顔を会わすことになる。道中は、相変わらず別々。金沢さんは、最初の頃から一緒だったので淋しく思うが、人それぞれのぺ−スがあるので仕方ない。31番札所竹林寺は、京都を思わせる風情があった。暑い中川沿いを越え、峠を越えていくと、山の中腹に32番禅師峰寺がった。急勾配の遍路道を登って行くとあった。足の悪い年輩の女性が、腰を曲げながら登って行く姿に惹かれて、一度下って納経を済ませていた私は、再度階段を上り本堂まで行き写真を撮った。32番から33番札所雪蹊寺の道中が大変苦しかった。バイパスを通過して行ったが、太陽がじりじり照らす中、日陰が無くひたすら真っ直ぐな道を歩くしかなかった。普通は、渡し船があり、船に乗って行くのだが、船の故障で大橋を歩いて渡らなければならなく、この道が大きな負担になった。桂浜も通過したが、以前来たことがあるのでパスして、ひたすら33番札所を目指した。橋を渡るとお遍路道は、旧道に入った。古い街並みを海岸線に沿って歩く。まわりには誰も歩いていないので不安であった。何回か道を聞く。遍路道ではなく、地元の人は近道を教えてくれる。が、遍路マ−クがないのでその先の道を見失う。途中造船所の敷地のそばを歩いていて、本当に迷子になり会社に飛び込み道を聞いた。親切に組合長さんと事務の女性の方が対応して下さり、冷たいお茶とお菓子で、お接待して下さった。地図も頂きいざ出発しようかと思っていると、岸本さんのお父さんが表の道を迷って歩いていたので、呼び止め一緒にお接待を受けた。この辺から、岸本親子との旅が始まったような気がする。その後も道を迷いながら、古い造船町を歩いて33番を目指した。途中、懐かしい構えの食堂があったので、入り遅い昼食にざるそばを食べた。店内には、モノクロのヘップバ−ンの写真がべたべたと貼っていた。地元の人がドンドン入って来て食事をしていた。33番札所の前に、今晩の宿があった。お参りをして納経所に行き、納経をしてもらうときに、なかなか個性的な風貌の人が書いて下さったので、思わずカメラを向けると、バタと窓を閉められた。「気が散るから撮るな」「すいません」とあっさりカメラを引きあげて話しを聞かされた。広島にも居たらしい。宿について女将に聞いたが、かなりの変人の寺守さんらしい。宿は、古い宿で部屋もあっけらかんとしたものだった。旅の風情にはちょうどいい。有名な民宿らしい。

宿泊地 民宿 高知屋 〒781-02 高知市長浜658 TEL 0888−41−3074


 16日目 50751歩

2003年5月24日(土)曇り

札所 34番 本尾山 種間寺 35番 医王山 清滝寺 36番 独鈷山 青龍寺

地図が古いためずいぶん迷っての到着だった。バイパスなどが出来ていて、古い地図を持つお遍路さんは苦労していた。地元の人は、私の持っている地図を見せても分からないと、別の道の説明を始める。小高い山の上に35番札所の清龍寺はあった。かなりの急勾配を登って行った。お寺の中で、お店を出しているおばさんに、お接待ということで、小夏をもらう。あとからきた岸本さんの息子にも分けてあげる。この寺を下山して、民宿汐浜荘に向かう。みんなの意見では、荷物を民宿において、一気に36番札所青龍寺に行った方が、次の日が楽だという意見。この寺は、引き返さなくてはならないので、行くことにした。しかし、なかなかつかない。海辺に出ても、遙か彼方に見える橋を渡って行かなくてならない。コンビニはいって聞くが、「車で5分か10分くらい」という回答がもどって来た。10kmというのは、歩く遍路さんにとっては、2時間以上を意味する。往復4時間以上かかることになる。荷物を宿に預けず、一気に橋を渡り青龍寺に向かう。海岸線を延々と歩く。橋桁が低く、高さ100mはあるのではないかと思う。腰あたりから上には、柵もないので、強風がきたらそのまま海に真っ逆様に落ちる恐怖と戦いながら渡った。青龍寺は風情もありなかな良かった。朝青龍の出身高校もありみんなの自慢の種のようだ。青龍寺では、昨日から一緒の宿だった、女性お遍路さんを撮影した。なかなか精悍な顔つきでまさしくイメ−ジ通りのお遍路さんと言った感じだったので是非にとお願いした。連絡先は聞いておいた。

宿泊地 民宿 汐浜荘 〒781-11 土佐市宇佐町汐浜 TEL 0888−56−0323


 17日目 37941歩

2003年5月25日(日)曇りのち雨

出発前 汐浜荘の夫婦を宿先で撮る。牛乳が欲しくなりコンビニに入ったがなくて、となりの店にあると教えてもらう。小さな地元のマ−ケット。入ると数人のお客さんがいた。「瓶の牛乳が欲しいのですが。」「あるよ、どこからきたの」と言うところから会話が始まった。お店にいた年輩の男性が「この牛乳は、わしのお接待じゃ」と言って下さった。せっかくなので記念写真を撮り、後日送る約束をした。「旅の途中で、しかもいつ結願出来るかも分からないので、承知下さい。」と了解をもらった。畑の仕事をしていた女性も撮らせてもらった。カボチャがあるから、お接待に持っていきなさいと言われたが、さすがに重いので丁重にご辞退した。旅の仲間になった、柴田さんが追いついた。海が見える高台に着いた。まもなく宿に着く。海の方を見ると、小さな二つの島が並んでいた。その先に、雨足が海上を進んでいた。もう少し先で写真を撮ろうと思い進んだが、急に雨がひどくなり、急いで軒下で雨したくをしてカメラを持ち写真を撮りに、海が見えるところに行ったが、すでに島は雨の中にかすみ雨足も無くなっていた。残念で仕方なかった。躊躇したことが、頭の中に残像として残った。宿には、まもなく着いた。宿泊は、柴田さんと二人だけ。岸本親子は、別の宿をとっていた。道路を挟んで向いの民宿だった。小料理屋さんだったので、料理は美味しいかったが、お店にとっては、効率の悪いお客だったろうと想像される。

宿泊地 岬旅館 〒785 須崎市安和918−1 TEL 0889−42−8355


18日目 36200歩

2003年5月26日(月)

札所 37番 藤井山 岩本寺

1日中だらだらと車道の急勾配の道を登ったような気がする。そえみず遍路道という有名な道があったが、膝の調子が悪いことを理由に車道を行くことにした。分かれ道まで一緒に行ったが、自動車修理工場でトイレを借りている間に、離れ離れになり、柴田さん孝太郎君は遍路道を行った。結果として、私と親父さんは車道を行った。本当にひたすら国道の脇の歩道を真っ直ぐ坂を登って行った。何キロも歩いた。途中合流したらしい。峠の喫茶店でコ−ヒ−を飲みながら休んでいると、ママさんがふたりが30分ほど前に、前を通過したと教えてくれた。急いで追いかける。多分、追いつくことはないと思いつつ。結構苦痛。お寺に着きお参りを済ませて、納経所に行くと尼さんが書いていたが「誰かに似ているね」と言われた。そういわれても困るな。「誰ですか」と聞くが判らずじまい。お寺では、素泊まりだけならOKと聞いていたが、着くってくれることになった。柴田さんは、すでにコンビニで夕食の品物を買っていた。広いゆったりした宿坊だった。みんな親切で家族的だった。お寺の近くに気になる喫茶店があったので、コンビニに買い物に行ったついでに入り、しばらく雰囲気に浸っていた。久しぶりの本格的なコ−ヒ−を飲んだような気がする。今日は、私の54歳の誕生日だが、誰も知らないので1人コ−ヒ−で乾杯。

宿泊地 藤井山岩本寺 〒786 高岡市窪川町茂串3−13 TEL 08802−2−0376


 19日目 17290歩

2003年5月27日(火)曇りのち晴れ

本日は、休養日として距離を歩かないことにした。10km先に佐賀温泉があるのでのんびりしようということにした。岩本寺の天井が面白いというので、朝お寺に頼んで見せてもらった。照明がつくと、天井には一マスごとにあらゆる種類の絵がはめ込まれていた。数百枚はあるだろう。およそお寺にはそぐわない、色っぽい絵も数多くあった。一般の人たちが思い思いに書いたらしい。出発前に宿坊の方々にお世話になったので記念写真を撮りたいと申し出た。本当は、素泊まりならいいからということだったが、突如は夕食を昨夜も作って下さった。お寺の奥さんも出てこられて一緒に撮った。お接待ということで、岸本親子と私に数珠を下さった。青・緑・黄色であった。私は迷わず黄色を頂いた。あとでいくらか調べたら、2500円もしていた。ありがたく頂いた。8時過ぎに岩本寺を出発したが、昼過ぎには佐賀温泉に着いてしまった。ひなびた温泉をイメ−ジしていたが、道の駅の温泉のようなところで、少しがっかりしたが、とにかく温泉に入ることにした。泉質はなかなかいい。近所の人たちも多く来ている。足の爪の治療もあるので、3回も入る。ここで食べたカレ−うどんはものすごい量で、夕食が入らないほどだった。

宿泊地 佐賀温泉 〒789−17 幡多郡佐賀町拳の川 TEL 0880−55−7011


 20日目 24550歩

2003年5月28日(水)曇りのち雨

学校の登校時間にあたり、女の子がお花を持って雨の中を登校している姿を撮影した。イメ−ジ通りであった。出発して佐賀温泉に行くまでに逆打ちをしているお遍路さんにあった。13年間回っているそうだ。以前お接待で頂いた1000円をお接待として渡した。2番札所で、お寺を掃除している女性に会ったら、このことを伝えて下さいとお願いした。途中喫茶店に入り休憩する。こぎれいな店だった。感じるに、海岸沿いの喫茶店レストランの閉店が目立つ。室戸岬あたりから気になるほど多く、バブルの後遺症なのか、景気の後退なのか分からない。歩いていて淋しくなるし、食事の都合がつかない。43番まで回るお遍路さんに会う。佐賀温泉を出発してきたらしい。中村市内までがんばって行くとのこと。私は中村市内の手前に宿をとった。相対的に距離が短く、昼過ぎには着いてしまう傾向がある。午後から2時間程度、距離にして10kmはがんばれるかもしれない。写真を撮るためには、これぐらいがいいのだが、雨が降ると被写体が無くなるので、時間が余ってしまう。うすき旅館には、13時についた。古い旅館だった。到着30分前に宿のご主人から電話があった。「今、どこにいますか?」場所を言うとまもなく着くからと言われた。町中に入り、探し当てて旅館に着いた。ご主人は、玄関先に座って待っていた。多分、昔は繁盛した遍路宿ではないだろうか。85歳と言っていた。早く着いたことをわびた。「あんたは、私の思った通りの人だった。」と言われた。それ以上は、追求はしなかった。お客さまは1人のようで、少しうらさびしい気分になったが、今までのざわざわした感じはなく、静かに一晩を過ごすことが出来た。宿の夫婦は高齢のなので、何も出来ないがゆっくりして下さいと言われた。布団の場所やトイレの場所。洗濯機のある場所も教えてもらった。洗濯機の使用料も設定されていたが、無料にして下さった。夕食は、この旅で初めて、肉料理が出た。部屋まで持って来て下さり、食事中そばに座って話しをして下さった。今後の旅館の取り方など、世間話にまで及んだ。「私は、視力も衰えたが、人を見る目はあるつもりじゃ。あんたはいい目をしている。」と誉め言葉を下さった。子供さんは、アメリカに行き、この旅館の前でホテルをしているらしい。そこから肉料理を運んで来たらしい。明朝、6時30分に出発したいと告げると、「朝食はないので、今夜精算をしておいてもらい、明朝は自由に玄関をあけて出発して下さい。」とのことでした。「明日は、早いので起きれないので、今夜、これでお別れですから失礼します。」と部屋を去って行かれました。香山さんから電話があり同行の意向が来ました。杉川さんに電話をして旬遊の創刊号の発売日が、6月24日に決定したことを聞きました。河尻さんからも電話があり、広島で手術後のリハビリを兼ねて、三段峡や寂地峡へトレッキングと撮影に行っていることを聞きました。宿泊先の予約も順調に行った。距離感が難しい。

宿泊先 うすき旅館 〒789-19 幡多郡大方町入野早咲3324 TEL 0880−35−5010


 21日目 42122歩

2003年5月29日(木)曇り

朝、出発するときは、ちゃんと玄関と表のゲ−トも空いていました。奥さんが準備して下さったのでしょう。病気だと聞いていました。こんな旅館もあるのだなと思いながら出発しました。いよいよ四万十川が見れる距離に来た。中村市。多くの人は、ひとがんばりして、昨夜のうちに中村市の駅前のビジネスホテル街に宿泊したはず。私は、足摺岬への道から外れていたので、あえて距離を稼がず手前で宿泊した。中村市までは、10kmあまりあった。町中に入るとよくあることだが、道に迷う。今回も、道に迷ってしまい最短距離で中村市を抜けることが出来なかった。四万十川は思ったほどの川ではなかった。台風が近づいて来ているせいもあり天候が不安定。川を渡るときに大雨に遭い、雨具をつけて渡る羽目になった。晴れたり降ったりと装備が大変だった。渡った頃から、今度は風が強くなり雨具をはずして歩き出した。民宿までは15km位あった。奈良の大川さんが追いついていた。昨夜岸本親子と同じ宿だったらしい。私の泊まった宿より少し手前30分位の民宿だったらしい。人気の民宿らしい。大川さんは、奈良から来た女性で当初は、小倉から来ていた波多野さんと一緒に歩いていたが、スピ−ドが会わないと別れてしまったらしい。途中、芥川賞をねらう徳島の若者にあう。明るい精悍な青年。野宿をしながら旅をしているとのこと。

宿泊地 民宿 久百々(くもも) 〒789-02 土佐清水市久百々120 TEL 08808−4−1664


 22日目 36014歩

2003年5月30(金)

札所 38番 蹉陀山 金剛福寺

思ったよりも距離があった。6時過ぎに久百々を出発。お接待におむすびを持たせてくれた。台風の為、外は風と雨が凄い。地元の人は、いつものことで驚いていない。「がんばってらっしゃい」てなもんだ。途中歩けない程の風が吹き付けてくる。何度か引き返そうかと思った。しかし、ものは考えようで、台風の日に、しかも台風の直撃するであろう足摺岬に向かって歩くチャンスは、一生に一度しかないだろうと想い。元就が言った「逆境こそ好機」を思い出してがんばった。同じ宿を5時に出発して、足摺岬でお参りしてから再び、久百々に帰って来る女性がいる。奈良の大川さん。台風の中歩く距離44km。さすがにそこまでの脚力に自身がないので、予定通り足摺で、台風の直撃を受けることにした。今夜が上陸予定。生活の知恵とはよく言ったもので、遍路道(旧道)のまわりには、防風林が植えてあるので、林の中を歩いている間は、全く風雨の心配はなかった。景色は見ることは出来なかったが、それほど台風の恐怖は感じなかった。逆に車道にでると、景色はいいかわりに風の直撃受けてしまい、歩いて前に進むこともままならない。いくつかの街を通過したが、同様に風雨は強い。海岸線の遍路道は、到底無理なので県道を歩いた、といっても車は、べつの車道を走っているので、歩行者天国のようなもの。しかし、お店というものは全くなく、水分の補給に気をつけた。途中の遍路道で「まむし」を見た。最初、おおきなミミズかと思ったが、50cm程のアスファルトの道の真ん中に、とぐろを巻いていた。茶色の短い花柄のような模様のある蛇だった。雨も降っていたので、思わずまたいで行った。すぐにあった、近所の民宿の女将さんに道を聞いたとき、まむしの話しをしたら驚いてた。気持ちが悪いのでしばらく車道を歩くことにした。そこで孝太郎君に会ったので、しばらく一緒に歩いたが、別の道を行くというので別れた。彼は、元気がいいので番外のお寺も見つけては納経お参りをしている。途中、足摺岬の手前歩いて1時間程のところに、お遍路さん用の休憩所があったが雨の為ベンチ等はずぶぬれになっていた。蚊をさけてしばらく休憩して再び足摺岬に向かう。30分程歩いたところで、大川さんが参拝をしませて、折り返して帰り始めていた。「早い。」荷物を民宿においているので、身軽なせいもある。これで、私は、大川さんに1日遅れで旅をすることになった。この道は行きっぱなしではなく、往復しなくてはならない道のりである。今回の旅で初めての経験。札所で岸本のお父さんに会った。道を間違えてスカイラインに入り、ご接待で車に乗せてらったらしい。道を間違えるともどるのに大変、台風でありしかたのないことかと思った。一緒にお参りを済ませて、足摺岬に台風の様子を見に行った。ものすごい風で顔を出すと、吹き飛ばされそうな状態だった。今夜が上陸予定。国民宿舎は、今までになく料金が倍近くの12000円。不満ではあったが、一度くらいはいいかと決めた。国民宿舎は、ほとんどが景色のいい場所なので、幹線道路から離れている。宿は、岬から2km山の上にあった。昔は、そばにあったらしいが、老朽化してしまい以前発見された温泉と統合して、新しくリゾ−トホテルを作ったらしい。そのため場所が、離れたがわたしの持っている地図が古く、誤解を招いた。ホテルの人は気持ちよく送迎をしてくれた。料金だけのことは、あり建物も立派で満足した。台風の中露天風呂に入るのも、気持ち良かった。山の上、うねり狂う森の木々のうねりを見ながら、なま暖かい風を身体に感じながら風呂に入る。しばらく楽しんだ。部屋は、ダブルの広々とした部屋。のんびりと台風をやりすごした。

ひろめ市場 http://www.hirome.co.jp/shop_inf.htm

宿泊地 国民宿舎あしずり 〒787-03 土佐清水市足摺岬1349 TEL 08808−−0301


 23日目 35459歩

2003年5月31日(土)曇り

台風の通過を待ってホテルを8時に出発。建物がしっかりしていたので、台風の通過は全く気がつかなかった。ジョン万次郎の像まで送ってもらい、そこからスタ−ト。昨日迎えに来てもらった場所。旧国民宿舎のあった場所。昨日来た道をもどることになる。林を抜けていくと、老夫婦が手をつないで坂を下って来た。黒沢映画の1シ−ンを見ている気分になった。思わずカメラを取り出したが、すでに遅く二人は、林の向こうに去って行った。残念。来た道を帰るのは抵抗があったが、別の道を通過すると相当お回りをすることになるので、最終的には、同じ道を選んだ。岸本の息子はこの方法がいやで、昨日、わざわざ大回りをして別の道を来た。ただ、昨日は台風。今日は小雨晴れの天候なので、気分と景色が違っていた。また、1日遅れの人たちとも会うことが出来る。案の定、北海道の落合さんや大阪の山岳部のおじさんに会うことが出来た。他の人の消息も聞くことが出来た。最初に一緒だった茅ヶ崎の金沢さんは、岩本寺の時点で、膝を痛めて東京に帰ったらしい。悔しい思いで帰ったのだろうと察する。私も膝に痛みがあったので気をつけようと思う。久百々には女性が二人泊まっているらしい。足摺岬からもどった大川さんと足摺岬に向かう波多野さんが再び一緒になったらしい。みんな久百々にもどるらしいが、私はもう少し先に進んでおきたかったので、1時間程歩いて先の安宿旅館に泊まることにしていた。結局このことが、女性二人に会うチャンスを失った。久百々では、早く着いたら、その日のうちに歩けるだけ歩いておいて、迎えに来てくれるらしい。そうして次の日に、その場所まで送ってくれるので、距離が相当稼げるらしい。私は、そのことがいやだったので、自分の足で歩いた。安宿旅館の手前に、39番札所に行く分かれ道がある。安宿旅館は、少し37番にもどることになる。分かれ道のベンチに老女が座っていた。休憩をしながら写真を撮らせてもらった。ベンチに座れと誘われた。「子供はいるのか」と聞かれる。耳が遠いらしく答えても聞こえていないらしい。「どうしてここに座っているのか」と聞いたが「遊びに来ている」と答えた。途中の車道で、2日前に出会った、芥川賞ねらいの青年にあった。昨日私が休んだ休憩所に泊まり、台風を迎えたらしい。どうやってふっきっさらしの宿をとったのだろうか?別の休憩所で会った人は、現在、1周半回っているとのこと、57日目だと言っていた。托鉢をしながら暮らしているとのこと。明日は、日曜日なので足摺岬の寺の前で托鉢をするらしい。早めに着いたので、安宿で昼食とスリ氷を頼んで食べた。ちょっと変わった店の人たちで、慣れているのか変人なのかよく分からなかった。宿泊している人は、さすがに足摺岬に行く人帰った人と倍の人数を感じた。事務的な処理には少し閉口。なんとなくぎすぎすしていた。宿泊している人は、今までとは全く顔ぶれが違い、夕食も面白くなかった。似たもの同士で宿を選んでいることに気がついた。久百々のような和気あいあいとした雰囲気がない。久百々が人気民宿である理由が分かった。

宿泊地 旅館安宿 〒787-02 土佐清水市下ノ加江276−1 TEL 08808−4−0567


 24日目 46326歩

2003年6月1日(日)晴れ

札所 39番 赤亀山 延光寺

長い旅であった。6時20分に安宿旅館を出発。ものすごい北風を受けながら、山間部を目指して進む。山道は、舗装道路がだらだらと登って行く。前後に歩いている人がいるが、いつの間にか見えなくなる。あとは、1人旅通常は、1時間歩いて10分休憩をとるようにしているが、全く休むところもないだらだらとした林道。ついつい長丁場を歩いてしまう。途中民家を見つけて、お水を分けてもらい飲む。それほど人気のない林道。遍路道らしくないので、なおさら疲れがたまる。途中、街中に入りお接待所があった。温かいお茶を飲ませてもらう。もらったバナナを食べる。遅れて歩いていた人も追いついてきた。岸本親子も合流。しばし話しをした。出発して2時間以上休んでいなかった。みんなぺ−スが違うので、なかなか揃うことはない。なんとなく温かい。途中の道に、牛の放牧がありしばらく写真を撮っていた。軽トラックの男性が、車を停めて飴のお接待をしてくれた。他の遍路さんにも配っていた。車に準備をして、見かけたら配るようだ。広島では多分受けとらないだろうが、お四国では自然に出来る。39番でも飴のお接待を受けた。今夜の宿には、岸本親子がいた。

宿泊地 民宿 嶋屋 〒787-07 宿毛市平田町中山 TEL 0880−66−1432


 25日目 43791歩

2003年6月2日(月)晴れ

札所 40番 平城山 観自在寺

荷物を民宿磯屋に持って行ってもらえるということで、身軽に出発した。32km足の調子も悪いので国道をひたすら歩いた。身が軽い分だけどんどん前へ進む。岸本親子と一緒に歩いた後国道で別れた。先陣を切って歩いていたが、トイレの為喫茶店に入り先陣を譲った。あとから来た人にも抜かれた。町中はいろいろな道があり迷った。道を聞いた女性2名からコ−ヒ−の接待の申し込みを受けたが、先を急ぐので丁重に辞退して写真だけ撮らせてもらった。露出オ−バ−かもしれないと心配しながら歩いた。幼稚園へ行く親子も撮った。国道は単調でだれもいない。時間的には早く着いたが実りはなかった。孝太郎君は、お遍路道を通って来た。つらい坂があったようだ。40番の札所は、面白い石仏がありしばらく、落ち着いて写真を撮った。別のグル−プのお遍路さんがいた。女性1名男性2名のグル−プ。もっと先まで足を伸ばすらしい。岸本さんのお父さんは、途中バスに乗ったみたいだ。一度車に乗ると、なかなか誘惑には勝てなくなるらしい。今後も多々ありそうだ。

宿泊地 民宿磯屋 〒〒798-41 南宇和郡御荘町長崎 TEL 085−72−0467


 26日目 37117歩

2003年6月3日(火)  晴れ

朝7:20出発。距離が短いののもあり何となく落ちついている。磯屋は船宿とのこと、何となく家族的な宿になっている。句の人は、大阪に帰って行った。お遍路道は険しいとのこと、ひざのことを考え、国道を行く。フラットな海岸線を回って行く。出発が遅れたぶん気温が高くて苦しい。何度も休みをとって進む。昨日の荷物が軽かった分今日が重く感じて辛い。望遠レンズのキャップを落としてしまう。ケ−スからレンズを取り出すのに手間取り、遅れをとっていたので、道ばたにキャップなどをおいて前に進んだ。かなり歩いて撮影が終了してもどったが、急いで道ばたの道具を持って進んだつもりが、キャップだけを取り損ねたままになってしまったことに気がつかず、途中まで引き返したが見つけることが出来なかった。これがないと、今後レンズに傷が付くので、すぐに広島に連絡して補充してもらうことにした。しかし、届くまでに1週間はかかる。そのことが気になって1日が済んだ。途中の坂道を歩いているときに、近づいてきた車から、お接待と言われてオロナミンCを頂いた。そして、しばらく歩いていたらうどん屋さんがあったので、昼食に入った。そこに、先ほどのオロナインCの女性が昼食をとっていた。話しを聞くと、名古屋の方で、ご主人と息子夫婦は現在、孝太郎君がチャレンジしている遍路道を歩いているらしい。先の下山地点で拾うらしい。「早いですね」と言われた。人間の歩く力は、結構早く、5分もあれば500m位は進んでいる。昼食後またまた歩き続けて、津島の町についた。町の中心部までが結構長い。やっと、川の側の三好旅館に着いた。古い格式ある旅館であった。岸本のお父さんは、予想通りすでに着いていた。バスを利用したらし。孝太郎君はすこぶる不機嫌である。香山さんたちも合流してきた。明日、一緒に歩くことになる。食事が済んで、香山さんに頼んで、レンズキャップをとりに行ってもらった。20分程車で走った処の歩道に黒いキャップはあった。あれだけ一生懸命歩いた成果が、車だと20分で到着してしまう。むなしさに近い気持ちになった。香山さんには、20分しか見れない景色を、歩くと1日かけて見ることになる。充実度が違うんだと説明した。夕食は、うなぎだった。毎日、カツオのたたきに飽きていたので嬉しかった。

宿泊地 三好旅館 〒798-33 北宇和郡津島岩松 TEL 0895−32−2107


 27日目 44451歩

2003年6月4日(水)雨のち曇り

札所 41番 稲荷山 龍光寺 42番 一果山 仏木寺

香山さんが合流した旅となった。同行の人は、車で先回りしている。全体に少し楽な道ではあった。来るときに明日歩く道を通過してきたらしく、今日でよかったと喜んでいた。私自身気を使ったのか、ぺ−スが狂いおなかの具合を壊し、ディックに行ったりしてトイレを使ったりして時間を食った。宇和島の町中を通過したため、前半は平坦な道ではあった。岸本さんの息子は番外にも行くということで、宇和島の駅前で別れた。我々は、駅前のベンチで休憩する事にして行くと、ボランティアの人たちがお花の手入れをしていた。街路樹になっていたプラムの実をとっていたので、分けてもらって食べた。なかなかの味だった。メンバ−に市議会議員さんがいた。道ばたを歩いていると、突然中年の女性が財布から、お金を取り出して「これでジュ−スでも飲んで下さい。お接待します。」と言って240円下さった。香山さんは、突然の出来事に驚き少し涙ぐんでいるようにも感じた。

宇和島の街を抜けると、登りの道になった。バス停にお婆さんがいたので休憩をしながら話しを聞いたが、結局よく話しは判らなかった。ヤクルトのお姉さんにヤクルトを買って飲みながら、道のことを聞いた。「最後の坂が大変ですよ。それ以外はたいしたことはありません。」と言われて元気を取り戻して歩く。途中イメ−ジのあう橋があったので、孝太郎君に歩いてもらい写真を撮った。急な坂道を上がりきると、盆地のような土地に出た。だらだらと歩いて行くと、41番札所番龍光寺に着いた。やはり急な坂が待っていた。門前の食堂「長命水」に入り、遅い食事をとった。話し好きな夫婦でコ−ヒ−をお接待して下さった。弘法大師からのすばらしい名水の話しが出た。お礼に夫婦の記念写真を撮らせてもらった。42番札所仏木寺に着く。ここの茅葺きの鐘楼が珍しい。

ここで、香山さんたちは、車で帰って行った。「明日の道は凄いですよ。」と言い残した。今夜の宿の名前は、とうべ屋どうも屋号らしい。遍路仲間では人気の民宿と聞いていた。案内地図に載っている宿は、評判が悪くみんな避けているらしい。食事後は、宿の前の田んぼに出かけ、蛍の乱舞を見た。私たちの興味は、明日の山越え(鎖場がある)と聞いていたので詳しく聞いた。「苦を選ぶか、楽を選ぶか」という看板があるから選びなさいと言われた。もちろん苦は鎖場の遍路道。楽は車道とトンネルの道。ここから20km程で次の札所が待っているとのこと。地図にはない、楽な山越えの道があることを知った。

宿泊地 民宿とうべ屋  愛媛県北宇和郡三間町則1582 TEL 0895−58−2382


 28日目 45913歩

2003年6月5日(木)晴れ

札所 43番 源光山 明石寺

5時半に食事。6時には出発して遍路道の山越えをする。地図には載ってない道なので、岸本息子と一緒に行く。霧の中、狭い山道を登り始めた。宿の主人が言った、分かれ道では、楽と書いたある車道を選んでトンネルを越えたが、それでも山越えに2時間半もかかってしまった。その後平地を20km程歩くと、43番札所明石寺がある。山の中腹にあり、しばらく急な坂道を登って行った。大きな落ち着いたお寺だった。納経後は、来た道ではなくお寺の横を通り、山の中の遍路道を歩き街に出た。前夜あった、17日目の健脚の人が追いついてきた。杖は半分くらいになっていた。ここで新しいのと買い換えた。どんなに早いのか興味を持って見ていた。山中で追いつかれた。下りは小走りで下って行った。昔、テレビで見た修験者のような走り方をしていた。あれぐらいなら17日も可能かもしれないと思う。しかし、多分時間の挑戦をしているだけで、まわりの景色や、人情に触れるひまがないようだ。それでは面白くない。昨夜話しを聞いていて感じた。もったいないなと。新しいお遍路さんが参加してきた。私は、昭和天皇とあだ名を付けた。しかし、後半は急勾配の車道を駈け下った。途中、反対車線の車から男性が降りてきて、お接待ですと大きなポンカンを2ヶも下さった。とにかく車道は暑い。何とか店の影にスペ−スを見つけて休憩。他に2名のお遍路さんが休憩していた。しばらく雑談をしていると、孝太郎君が追いついてきた。どこかに寄り道をしていたらしい。番外のお寺もこまめに納経している。落合さんに電話をして現在位置を確認した。ずいぶん近づいてきている。無理をしなければいいのだが。最後の500mくらいの時、古い建物の2階で女学生が、外に向かってシャボン玉を吹いて遊んでいた。チャンスと思ったが、ついにカメラに手が届かなかった。気力が無かった。しかし、シャッタ−チャンスを逃した、幻の3枚目になった。ことぶき食堂は、古い大洲の街の中にあった。ずいぶん歩いた気がしてくたびれて到着したが、岸本の親父さんが、浴衣姿で手を振って向かえてくれた。お接待で宿の前まで乗せてもらったらしい。親子で言い合いがあった。しかし、半ばあきらめたような感じもあった。ベストを求め過ぎて、とん挫するよりはベタ−で最後まで行くのも方法だよと慰める他はなかった。瀬戸内海に近づいたのか、木江の宿に似てきた。古い宿。この日は、親父さんも元気に「ビ−ル3本持って来て。今日はせがれの誕生日だから」と堂々とビ−ルを飲んでいた。アルコ−ル依存症の父を立ち直らせるために願をかけて旅に出たらしい。「完全歩行。禁酒」微妙な顔を孝太郎君はしていた。孝太郎君も、この旅に禁酒していた。私もつい、つきあっていた。

宿泊地 ことぶき旅館 〒795 大洲市大洲559 TEL 0893−24−4135


 29日目 47722歩

2003年6月6日(金)晴れ

古いことぶき旅館を7時に出発して、高橋旅館に向かう。30kmは少し苦しい旅である。平坦な道ではあるが、暑さに耐えられない。午前中になるべく距離を稼がなくてはならないが、がんばったつもりが内子まで15kmがいっぱいだった。内子の古い町並を少し歩いた後に、山岳地帯に入り高橋旅館を目指した。景色を見る余裕もないほど暑さに参る。見かけないお遍路さんが、前後に歩いていて抜いたり抜かれたりしながら旅した。休憩所らしきものがないので、整備されたバス停で休む。水分補給が頻繁になる。お遍路道と車道が川を挟んで平行していた。車道にこだわった私は、直射日光の強い道を歩く羽目になった。旧道は、林に囲まれた車の少ない道だった。途中交差するところに、立派な休憩所がありここで、しばらく休んだ。多く岸本親子とは、ここで合流したが、他のお遍路さんは先にどんどん行ってしまった。道を聞きながら、夕方高橋旅館に着いた。ツバメが住む旅館だった。誰もいなくしばらく待った。近所に気になる喫茶店」があったので、孝太郎君と二人で入り、コ−ヒ−を飲みながら情報収集をした。近所の主婦の集会所と言った風情。明日行く場所の出身の人も居て、詳しく教えてくれた。吉井さんに電話をして、近況を知らせておいた。44番45番の札所をどちらを先に回るかというのが大きな問題になった、距離が30km以上ありこれを行けば45番札所の近くの国民宿舎に行ける。しかし、場所から言ってかなりの標高差があるので、親父さんの脚力では難しいのではということで、15km程の処にある宿をとっていたが、昼前に着くから、もっと足を伸ばした方がいいという意見なので、45番との間の旅館に電話してが、休業中ということで、結局、予約している宿から5km延ばして、44番札所の前に宿をとることにした、その場合、45番札所は、往復する事になる。15km程度の山岳車道を往復しなくてはならないので、44番札所の宿に2連泊する事にした。

宿泊地 高橋旅館 〒791-35 上浮穴郡小田町田村甲403 TEL 0892−52−2316


 30日目 35733歩

2003年6月7日(土)晴れ

札所 44番 菅生山 大宝寺

高橋旅館のツバメに見送られて、朝7時すぎに出発した。いきなりしんどい峠を越すことになった。これを越すとあとはなだらかな道と聞いていた。7kmを2時間30分かけて登った。車道ではあるが山を越えると言った感じでひたすら登って行く。途中道路工事をしている夫婦や家の前で遊ぶ子どもたちに会った。親切に峠の越え方を教えて下さり、峠まで乗って行かないかと誘われたが、私は歩きたいと丁重にお断りした。岸本の親父さんにはきついだろう。もしものことをお願いした。「後ろから来る足の悪い人が来たらお願いします。」ひたすら登って行った。今回の旅は、いたるところに難所と言われる場所がある。地図が古いのでなおさら脅されることが多いが、案外車道が整備されていて、遍路道さえ通らなければ、めちゃくちゃということがない場合もある。今回は、急勾配の道をひたすら登るだけ。車道は、勾配をなくすため蛇行して登るが、遍路道は最短距離をショ−トカットしているので、真っ直ぐ山を登る。神社を過ぎたら、遍路道に入り車道にぶつかって2本目に出たら、この車道を真っ直ぐ登れば一番いいからと教えられた。ところがこのショ−トカットの遍路道は、まさしく真っ直ぐ山を登るものだから大変な急勾配。とても下りは、滑ってだめなのではないかと思うほど。雨の為ぬかるみ滑る。距離は数百メ−トルではあるが、アゴが上がる。途中村の人に出会うので、写真を撮りながら話しを聞く。多分、昔は隠れ里だったのではないかと思う。「買い物はどうするのですか?」「車で10分も走ればお店があるから。」確かに宿泊した小田まで10分そこそこだろう。昔は、大変な時間がかかったはず。思わず苦笑いした。車で10分。私が歩いたら、2時間ではつかない距離。急勾配を登って、やっとトンネルについた。途中、岸本の親父さんは、軽トラックに乗って行ってしまった。もう後ろには、誰も歩いてはいないはず。やっとトンネルに着いた。ここからは、フラットで楽な道のはず。トンネルを抜けるとあたりは、うす暗く雲行きが怪しい。雷が鳴り始めている。しばらく行ったがますます、音も激しくなり、木陰で雨具の装備をして歩き出した途端、バケツをひっくり返したような大雨と雷が落ちだした。避難するわけにもいかないので、なるべく高いものがあるところを選んで歩いた。腰にはカメラがあるので、いつ落ちてくるか分からない。どっかんどっかんと雷が落ちる。1時間ほどすると、嘘のようにやみ、今度はじりじりと太陽が照りつける。神社の前を通過すると、着物着た人たちがお宮参りに着ていた。興味があったが、急いで目的地の向かう。45番44番の分かれ道に着いた。バス停で休憩しながら、45番への道の整備の良さに驚いた。地図では、どんなへんぴな道を歩かねばならないのかと思ったが、これなら地元の人が言うように強行しても行けそうだった。しかし、予約も住んでいるし金尾君も来るので、予定通り44番札所に向かう。5kmと書いてあったが、なかなか着かない。途中名水があったので、乾いたのどを回復することが出来た。街に入ってしばらくすると、お店から女性が出てきて、お接待ですと500円を頂いた。旧道を歩いていった。昔の街道を思わせる街並。宿は車道にあった。料亭もやっているようだが、一般のお客はとってないようだ。メニュ−も大変と思う。早めに着いたので、まず、44番の札所に行った。30分も歩けば着くと言うことだった。案外、宿から、札所に行くのは辛いものだ。荷物は、前回の経験を生かして余りへらさない状態で行った。孝太郎君はすでに行っていた。札所の帰りに、喫茶店に入り、遅い昼食をとった。別の話好きな男の人に、45番のことを聞いた。お遍路さんは、道を聞くくせに、私の話を信用しない。それなら聞くなと言ったこともありますよ。」と言われてしまった。ごもっともではあるが、案外間違った情報で、困っているのも事実。宿に帰って、ゆっくりと洗濯をしたりして身体を休めた。天皇と言われる人物が、何となくメンバ−入りしてきた。顔そして仕草が昭和天皇にそっくり。幸いなことに、レンタルマンションのようになった宿だったので、個室でゆったり風呂にも入ることが出来た。今日は、距離が25km程度だったので、人物の写真が撮れた。やはり30kmになると写真を撮る余裕がなくなる。明日は、同じ宿に泊まり45番札所を目指す6〜7時間かかるらしい。登りがきついと聞いている。

宿泊地 民宿笛ケ滝  〒791-21 上浮穴郡久万町久万203−1 TEL 0892−21−0502


 31日目 36330歩

2003年6月8日(日)晴れ

札所 45番 海岸山 岩屋寺

7時に宿を出発。45番札所に向かう。きつい登りの道と聞いていたので、予想通りと登って行く。途中遍路道があるが、今日はひたすら車道を行くことにした。実際には、2つの峠を越すことになり、下りもかなりある。行きに3時間帰りに2時間、滞在1時間、休憩1時間の予想だったが、半々の時間配分になる。途中国民宿舎を通過したあたりで、作業をしている人たちに呼び止められて、お茶のご接待を受けた。車道は日差しが強く、水分補給を充分にしないと倒れそうになる。渓谷美を売りにしている道らしい。中国の渓谷を思い出す。道路が整備されてきているので、地図をあてにしないで歩く。岩屋寺は600mの場所にある。車道450mから一気に山の中腹まで登る。急勾配にみんなふらふら状態で登って行く。バスツア−の人たちがたくさん来ている。日曜日だ。15分位でお寺に着いた。まわりは、石仏群があり見応えがあるが、登るのに精一杯。「ありがとう」と言いながら登る女性もいた。いろいろな人生を背負って来ているのだろうなと思う。私にとっては、ベスト3に入るお寺だった。帰りは、道筋が判っているので、早く感じた。2時間15分で帰ることが出来た。孝太郎君とも何回か一緒になった。お接待でもらった宿のむすびを昼食にした。3時前には広島から義理の弟の金尾君が明日同行するために車まで来た。彼には、是45番に行くよう勧めた。車で20分程度だったそうだ。洗濯や明日の準備で結構忙しい。久しぶりにビ−ルを金尾君と飲んだ。

宿泊地 民宿笛ケ滝  〒791-21 上浮穴郡久万町久万203−1 TEL 0892−21−0502


 32日目 42089歩

2003年6月9日(月)晴れ

札所 46番 医王山 浄瑠璃寺 47番 熊野山 八坂寺 48番 清滝山 西林寺 49番 西林山 浄土寺

いよいよ松山を目指して7時に出発。金尾君も同行。軽い登りから三坂峠を目指す。標高700mから車道を離れて、遍路道に入る。草茫々の道なき道から、細い獣道のような遍路を松山市内目指して、一気に300mくらいまで下って行く。逆に登るのは勘弁して欲しい道である。だらだらと下りながらまず46番浄瑠璃寺に向かう。携帯に広島の水野夫妻から連絡があり、46番でおいしいお茶とお菓子のお接待をそこそこに頂いて、47番に向い水野夫婦に会った。先に孝太郎君が行ったので、人相風体を教えていたらすぐに見つけたらしい。バスの都合があり、ゆっくり話しをすることは出来なかったが、記念写真を撮った。不思議な出会いである。47.46.45.44とバス遍路ツア−で来ていたらしい。平地をその後、48・49番札所とまわり宿に着いた。ここで金尾君は、出発点の民宿笛ケ滝へタクシ−で戻り、自分の車に乗り換え松山からフェリ−で広島に帰った。金尾君は杖を持ってなかったので、下りは相当苦労したことだと思う。それほどの急勾配のぬかるんだ山道を下った。しかしながら、山の景色はすばらしくいい経験が出来た。鷹の子温泉は、本物の温泉で、久しぶりにゆったりと温泉気分を味わった。何回もお風呂に入れるのは魅力である。高知で別れた落合さんが46番札所まで来ていることが電話で判った。我々がゆっくり来ているので、明日には追いつくかもしれないと伝えたが、ここ数日間40km近い強行軍で歩き、三坂峠の下山で膝を痛めたので、松山で病院に行くと言った。追いつくのは無理かもしれない。半日の距離にいるのだが。

宿泊地 鷹の子温泉ホテル 〒790 松山市鷹の子町744 TEL 089−975−0311


 33日目 35603歩

2003年6月10日(火)曇り

札所 50番 東山 繁多寺 51番 熊野山 石手寺 52番 瀧雲山 太山寺 53番 須賀山 円明寺

瀬戸内海汽船の白倉常務がお接待に「道後舘」のお風呂に入っていくように誘われたが、歩いている途中に温泉に入ると動けなることが判ったので、丁重に辞退させてもらった。他の人も、はじめは道後湯に行くようなことを言っていたがやめた。今日は、20km程度の距離なので、松山市内で用事を済ませることにした。まず50番51番を済ませた。リクル-トの仕事で撮影に来た理美容の学校の担当者の方に、遍路の挨拶に行った。方向が違うのでまず、市内の真ん中まで出てからタクシ−に乗り学校に行き再び乗った場所に帰り、そこから歩き始めた。先生はあいにく不在だったので名刺だけ置いてきた。目的の52番は松山観光港に近い場所なので、市内からかなり余分に歩くことになった。1時間ほどロスが出た。雨が降ったりやんだりしていた。女房が、広島から1日体験同行するので、52番で待ち合わせたが、ロスの為決まった時間に行くことが出来ないので、JR三津浜の駅で待ち合わせた。タクシ−で1500円位の距離。駅で待ち合わせて昼食を済ませて歩き始めた。地図がよく分からず、かなりまよって着いた。今回は地図よりか地元の人の話が正しかった。天皇もいた。孝太郎君は入り口の山門で出くわした。ここからかなりあるというので覚悟を決めて登った。53番の円明寺は1時間もかからない場所にあった。民宿が少し離れていた。道を探しながら、歩いた。岸本親父さんが大きい道まで出てきて向かえてくれた。ここから、海岸線を入って行った。200mが相当長かった。天皇は、几帳面な正確なのでぶつぶつ言いながら着いた。海水浴場の民宿のようだ。料理は食べきれないほどあった。この旅で一番ではないだろうか。朝食も食べきれなかった。

宿泊地 民宿 佐伊知 〒799-2651 松山市堀江町843−7 TEL089−979−0303


 34日目 31532歩

2003年6月11日(水)曇り

朝、7時過ぎに出発。女房は、宿の女将に桟橋まで乗せて行ってもらう。我々は20km程の旅に出発。ゆっくりと今治に向かう、途中ゼクシ−で取材に行ったケ−キ屋さんがあった。瀬戸内海を見ると気が抜けてなんとなく身体がだるい。単調な海岸線を歩く。途中、遅れていた山岳部の人が道の駅にいた。北海道の落合さんと一緒に旅していたらしい、かなりハイピッチの人と一緒だったらしく、疲れたと言っていた。落合さんもマイぺ−スの人だが、引っ張られて結局膝を痛めたらしい。横峰寺のことが話題になった。宇治の森田さんが、15日に同行することになっている。あたりそうだ。金尾君も心配して連絡してきた。下井さんの友人が新居浜にいるので寄ってみてはどうかという提案だった。時間が許せばと回答しておいた。道から外れていなければ可能。宿泊地の菊間は、瓦に産地らしい。そして近所に石油コンビナ−トがあるので、工事関係者が常宿に使うらしい。久しぶりのベッドだった。

宿泊地 月の家旅館 〒799-23 越智郡菊間町本通 TEL 0898−54−4748


 35日目 42061歩

2003年6月12日(木)晴れ

札所 54番 近見山 延命寺 55番 別宮山 南光坊 56番 金輪山 泰山寺 57番 府頭山 栄福寺 

58番 作礼山 仙遊寺

菊間町を出発。海岸線をだらだらと13km歩いて54番札所に着いた。途中石油コンビナ−トがあった。気になるのは、お寺の大きさが小振りになってきている。数が多くて覚えきれない。少しだれてきているのかもしれない。団体のバスツア−が着くとお寺は、騒然とする。30分模すれば静寂にもどる。57番58番の札所への道は、たんぼのあぜ道山道と多彩。久しぶりに山道を歩いた気分になる。58番札所は、当初丘の上にあると聞いていたが、実際は山の中腹にありかなりの山道を上がって行かなくてはならなかった。誤算である。山岳部の人は、私たちにはついて来れなかった。なかなか景色がいい。宿坊は近代的な建物だが、お寺との違和感はない。階段には女性のヌ−ドの塑像が飾ってある。体育館のような設備もある。変わった住職であることは想像がつく。夕食は、本格的な精進料理でおいしかった。部屋は個室。テレビはなかったがゆっくりとくつろぐことが出来た。通夜堂に若者が泊まっていた。ぺ−スが早そうなので、先を行っている人に伝言を頼んだ。落合さんが、北条市まで来て、リタイヤすることになったと電話で話をした。足の具合が悪く、横峰寺の事を考え、一度北海道にもどり、出直すことにしたらしい。大変残念がっていた。逆に、37番岩本寺で帰って柴田さんが、5日遅れで再出発して追っかけて来ている連絡があった。5日の遅れは、追いつくのが難しいかもしれないが、私たちのスピ−ドダウンを考えると最終日あたりで、追いつく可能性がある。

宿泊地 作礼山仙遊寺 〒794-01 越智郡玉川町別所甲483 TEL 0898−55−2141


 36日目 35955歩

2003年6月13日(金)晴れ

札所 59番 金光山 国分寺

仙遊寺では、6時からお勤めがあった。なかなか面白い話しであった。自分が25年住んでいてもよそ者である。遍路を世界遺産にする運動を展開している。その後、1時間ほど、問答をした。広島の世界遺産の問題もあった。ダライラマの世界音楽祭のことも話題に出た。トランペットの近藤さんのことも話題に乗った。心の中のことあった。珍しくみんなゆったりとした気分で、1日が始まった。急いで出なければならない日々が続いていたから、よけいゆったり感じたのかもしれない。出発は9時前であった。門前のおみやげ屋さんの前を通った時、店先の女性がタオルを出して「どうぞ」と言いました。私は、お店の客引き用に渡しているのだろうと思ってしまい、何か買わなくてはならないのかもしれないと警戒してしまい、断りました。一緒についた孝太郎君は、ちょっと躊躇していましたが「ありがとう」と受け取りました。「これは、お接待ですから」とその女性はいいました。そうかと思い、アイスクリ−ムを売っていたので、帰りにタオルをもらえば良いと思い、お参りを済ましお店に立ち寄り「あのタオルをいただけませんか?」とお願いしました。「お断りします。気持ち良く受け取っていただけなかった方には差し上げません。」自分の邪心に恥じて「わかりました申しわけありませんでした。」と言うしかありませんでした。「アイスクリ−ムを下さい。」といいながら財布を出して支払おうとしましたが「アイスクリ−ムはお接待させて頂きます。」と言ってお金を受け取りませんでした。タオルは、この土地の産物で宣伝も兼ねてみなさんに配っているのだそうです。もちろん、歩き遍路さんのみとのこと。ちなみにアイスクリ−ムは200円の表示がしていました。長く感じる道を歩き、商店街の中にある、宿に着いたコンビニに行き牛乳を買って来て、一気に飲んだ。便秘を直すためだ。明日の横峰寺を考え改善しておきたかった。古い宿場宿と言った感じ。前日の宿坊とは、全く違いプライベ−トはほとんどない。

宿泊地 栄家旅館 〒791-05 周桑郡丹原町願蓮寺173 TEL 0898−68−7164


 37日目 29140歩

2003年6月14日(土)

札所 60番 石鎚山 横峰寺

いよいよ覚悟を決めた60番札所横峰寺に向かう。長い商店街を抜けて山の中に入る。雨はひどく降っている。今回、山岳地帯は、ほとんど雨が降っている。涼しくていいのだが、カメラが濡れて困る。ライカ−の威力は凄い。途中一度錆びてフィルムのとりはずしが出来なくなったが錆止めを吹いて解決した。その後は、コンビニのビニ−ル袋で硬くガ−ドしているのでくもることも少なくなった。油断するとファインダ−は雲って何も見えなくなる。横峰寺に上がるには、車道か遍路道しかない。私は、2時間位つらい階段をがんばれば着く遍路道を選んだ。しかし、地図が古くかなりの間道が整備されていて舗装道路が続く、急勾配ではあるがびっくりするほどではない。名水の出る場所まで着いたが、休憩所があった。舗装道路はここで封鎖されている。名水の出る崖の上に、遍路道の標識があった。いよいよだ500mの標高差を登って行く。標識では1時間10分と書いてある。階段を1時間10分がんばって登れば着くのだと言い聞かせて登り始めた。案の定、道は細く果てしなく続く階段が目に入ってくる。雨で道はずぶずぶになっている。最初、岸本の親父さんを撮るため、親父さんの前や後ろに回って撮っていたら、自分の息があがり、ぺ−スが崩れてしまった。スロ−ペ−スの親父さんは、休まずひたすら登って来るので、抜かれそうになるほど疲労してしまった。1時間弱で横峰寺に着いた。雨はひどくポンチョの中は、汗と雨でずぶぬれ状態。止まってしまうと寒さが襲ってくる。高地なのでなおさら身にしみる。売店はないので、前日コンビニでパンとバナナを買っておいたのを休憩所で食べた。飲み物は、自販機があったが全部冷たいものばかり。この時ばかりは、温かいコ−ヒ−が飲みたかった。他の人は、着替えをして寒さをしのいでいた。私は、予備を持っていないので、体温で乾くのを待ったがだめだった。寒いのでそうそうに下山する事にした。後から、数名のお遍路さんが登って来た。天皇も早めに来ていた。てっきり1日早く登っていると思ったが、どこかで休養したらし。知らないお遍路さんにも「あんたが広島のカメマン?」と聞かれた。情報が流れているらしい。ここに来ると遍路さんの数も減ってしまい、宿の数も少なくなっているので情報は瞬時に流れていく。帰ろうかとしたとき、36番札所で別れた二人ずれの1人である岡野さんが登って来た。36番で写真を撮らせてもらい、その後メ−ルのやりとりがあり、横峰寺に登る予定が一致していたので、会えればとメ−ルを打っていたので合わせて登って来たらしい。聞くと、西条に住んでいて、横峰寺からスタ−トしたので、結願のために来たらしい。我々は、寒いので降りた。我々の今から下るル−トは、険しいので最近は通行する人がいないので、相当あれていると言われた。しかし、その下山したところに宿を予約しているので変更するわけには行かず強行する事を伝えた。天皇たちは、来た道を下り61番札所にもどるらしい。再び山を登り峠に出て、いよいよここから急斜面を一気に下る。多分、このたびの中で一番の急勾配であろう、地図の傾斜数値を見ても崖のように感じる。下りだしたが、言われた程のあれようではなかったが、岩盤の道が、長年の歳月で、滑りやすく摩耗している上に雨が降りしきり、枯れ葉が落ちているので、足を置くだけで滑って転げ落ちそうになる。カメラもあるのでいかに滑らないようにするか気を使って歩く。道は、真っ直ぐ下っているので滑り出したら大変。30cm程の道の中心を避けて、道の脇の枯れ葉の上を踏みながら下った。杖を使いながら降りるが、杖も地面を滑る。とうとう滑って倒れそうになったので、杖を支えにしようと右手に力を入れたが、50肩の右手は無力で、激痛が走った。支えきれなくそのまま滑りながら倒れた。左の腰につけたレンズをかばいながら倒れたので、しばらく激痛の為地面にうつぶせになったままになった。途中ベンチがあったので、休憩。岸本息子も休んでいた。親父さんが途中で倒れたら大変なので、しばらく待つことにした。孝太郎君も2回転んだらしい。すぐに、人影が来た。親父さんではなかった。さっきお寺で別れた、岡野さんが、走り下るように降りてきた。親父さんも続いていた。抜かれたのだ。「早いね」と聞くと、山道を歩くのは好きで、こんな道は、すべるので小走りに走るように降りた方が安全です。」と言われた。まさしくその通りで、出発して数秒後には彼女の姿は見えなくなった。「歩いたことのないコ−スだったので、連れが出来たので安心して来た。」と言っていた。今日、奈良からも友人が来るので、61番の車までもどったら、車で宿まで来ませんか。一緒にコ−ヒ−でも飲みましょう。ということで別れた。宿から15km程車道を下った所に、61番札所がある。2時間半もあれば、彼女の足だったら行き着くだろうということになった。私の足では、3時間半はかかるだろう。遍路道から、宿までは車道を15分くらい歩いたら着いた。この宿は、石槌山(1900m級)の山に登る中継地らしい。森田さんの家族がまもなく着いた。体験の為、今下って来た遍路道を10分間だけ登るよう案内した。入り口には、たくさんの竹で出来た杖がおいてあった。奥さんと息子さんがついてきていた。食事をしながら、明日の予定等を説明していつも通り眠った。結局、岡野さんは疲れたらしくキャンセルとなった。

宿泊所 関門旅館 〒791-04 周桑郡小松町河口 TEL 0897−59−0607


 38日目 35360歩

2003年6月15日(日)曇り

札所 61番 栴檀山 香園寺 62番 天養山 宝寿寺 63番 密教山 吉祥寺 64番 石鉄山 前神寺

森田家族と3名と一緒に食事をした後、婦人と息子さんは別行動になったが森田さんとは一緒に歩いた。フラットな道を2時間半歩いて国道に出た。フラットといっても車での話しであって、歩き遍路にとっては起伏のある道、特に湖の周辺はかなりの登りとなった。最初は一緒に歩いたが、いつものように列は延びていき、いつの間にか見えなくなっていった。香山さんの時に一緒に歩いて、気を使ったので森田さんには、1人でゆっくり遍路の旅を感じてもらいたく、気にせずに歩いたので、別々になった。森田さんもカメラを持って撮っていた。血が騒いだことだろう。分岐点でしばらく待つと、岸本息子も森田さんも追いついてきた。孝太郎君は番外のお寺にお参りしていたらしく、遅れて着いた。国道に向かって坂道を下って行った。このまま行くと、63番に着いてしまうので、まず、61番に戻り順番通りお参りする事にした。国道の喫茶店で、3人でコ−ヒ−を飲んで休んだ。孝太郎君もゲストが来ると興味を持って接してくる。61番お寺というよりか近代的なホ−ルのようになっていた。お宮参りの家族が多くいた。お寺を出て歩いていると「ちょっと待って。」と車の中から呼び止める男性がいた。道を間違えたか、もしくは道を聞くのかなと思っていると、「お接待です。これで何か飲んで下さい。」と1000円を下さった。親父さんを入れて4名で歩いていたので分配した。さっき来た道を引き返した。国道ではなく旧道を歩く。旧道は狭く、車の往来が激しくかえって国道の歩道をあるいた方が楽であるが、街の様子を見たいのであえて旧道を歩いた。他のお寺は、結構小振りであった。土曜日ということもありバスツア−の人が多く、相当ざわついていた。64番札所には徳川のマ−クがあった。森田さんも、雨ありお接待ありと一応の経験が出来たと思う。昨日あった岡野さんが、近所なので宿まで来てくれた。近所の喫茶店に行き、今後の情報を聞いた。雲辺寺の登り方も聞いた。手前から登る楽な道があるという。手前の三角寺のすばらしさも聞いた。今後メ−ルで問い合わせをすることにしてお願いした。下井さんが紹介して下さった、新居浜の大師堂の方に電話したが、難しいそうなので少しだけ時間をとって行くことにした。長いは避けようと思った。孝太郎君も行くと言っているので好都合。岡野さんは行けそうにないので、よければ後日紹介することにした。森田家族とは、喫茶店で別れた。宇治までだいぶ走って帰らねばならない。湯ノ谷温泉は、昔の湯治場の感覚。泉質は最高と聞いていた。小さな湯船に溢れるように人がいる。なかなか風情があっていい。サウナもやたらに暑い。出てからの牛乳がおいしい。歩き遍路は我々3名以外に、女性が1人泊まっていた。60歳くらい、なかなか勇気ある人だと思った。

宿泊地 湯ノ谷温泉 〒793 西条市州之内1193湯ノ谷 TEL 0897−55−2135


 39日目 33119歩 

2003年6月16日(月) 

久しぶりに27km歩いた。急いで歩き出来るだけ午前中に距離を稼ぐ方法をとった。小雨の為、ポンチョをつけたりはずしたりと時間を食った。途中、国道でクラクションが鳴るので、びっくりして見ると岡野さんが事務服を着て手を振っていた。孝太郎君には、車を停めて話しをすることが出来たらしく、後でお接待を預かったと500円を手渡された。11時頃東田大師堂に着く。下井さんの紹介の人。電話の印象とは全く違い親切な夫婦が向かえて下さった。石碑や札の研究をしていて、なかなか詳しい。早稲田の非常勤講師もしているとのこと。つい長居をしてしまった。当初は、30分位で失礼しようと言っていたが、余りにも居心地がよく3時間も滞在してしまった。雨が降っているので写真はなかなか撮れなかった。延々と旧道国道を歩いて、やっと宿を探し当てた。親父さんはすでに到着して、玄関で待っていた。孝太郎君は番外に寄っていたのでまだ着いていなかった。この旅館は、料亭のようで、座敷が今夜の寝床となった。

宿泊地 蔦廻家旅館 〒799-07 宇摩郡土居町土居 TEL 0896−74−2025


 40日目 21440歩

2003年6月17日(火)曇り

今日は休養日と決めた。12km程度の道のり。9時に出発して12時頃には宿に着いた。途中バス停で婦人からお接待にと120円頂いた。雲辺寺の事を聞いたが、みんなロ−プウェで行くので、歩くことについての情報は得られなかった。途中、埼玉の若者に会い、話しをしながら歩いた。なかなか精悍な顔付きである。ゆったりした時間。彼は、30km以上歩いて行くらしい。私たちの明日の宿までということになる。三角寺というお寺があり、この山に午後登らないで、朝登る予定で、今日の距離を短くした。他の人は無理をして行くらしい。雲辺寺を控えて休養。遍路道は旧道だったので、街の歴史を感じながら歩いた。宿は、工事関係者の常宿だった。ビジネスホテルである。こぎれいでゆったり出来た。昼食は、ホテルを出て駅前まで歩いて行き、ピザの店に孝太郎君と入り食べた。こんな街にしてはと言った味の店だった。宿では、ボ−としながら明日に備える。スタジオから連絡があり、現実にもどる。

宿泊地 ろんどん荘旅館 〒799-04 伊予三島市中央5丁目3−46 TEL 0896−23−2126


 41日目(計測を忘れていた)

2003年6月18日(水)

札所 65番 由霊山 三角寺

ろんどん荘を雨の中出発。三角寺に向かう。20kmあまりの行程。三角寺は思った以上に大変な山の中にあった。登り切った所にお寺はあった。そこから民宿岡田までは、山の中の細い県道を登ったり下ったりした。360mの三角寺から100mの標高まで下り、そこから200m290mと登った。途中峠にお接待所があり大変助かった。夏みかんとお菓子がおいてあった。水分を用意していなかったので、前の会社に行き、お水を分けてもらうようお願いしたら、親切にも冷たいお茶をだして下さった。お接待所にはトイレも完備していた。前の会社がボランティアで用意したらしい。お礼に事務の女性を撮った。広島の大手町に住んでいたらしい。下山して番外の常福寺に行った。雲辺寺の登山道を聞く目的もあった。私は、結局、番外ではこのお寺のみ納経した。お寺ではお茶のお接待を受けた。納経の300円も歩き遍路さんからは頂かないとのことだった。ここが標高の底で、ここからまた登って行かなくてはならない。どんどん登り、トンネルを過ぎた所に、コンビニとレストランがあった。ここで遅い昼食をとった。明日の山での食料を買い込んだ。雨の中、久しぶりに温かいうどんを食べた。結構辛い1日であった。岡田には15時30分ころ着いた。この宿しかこの近辺はなく、3日前に予約しないと泊まれないことがあると聞いていたので、早めに申し込んでおいた。いっぱいのお客だった。掲示板があったので、大川さん柴田さん波多野さんにメッセ−ジを入れておいた。柴田さんは明日着くらしい。天皇と昨日の若者は、昨日宿泊して、今朝登って行ったらしい。気さくなご主人で、明日の難関雲辺寺について、くわしくアドバイスして下さった。広島で被爆したらしい。被爆手帖を持っているとのこと。

宿泊地 民宿岡田 〒799-52 徳島県三好郡池田町佐野 TEL 0883−74−1001


 42日目 73363(二日分)歩

2003年6月19日(木)曇り

札所 66番 巨鼇山 雲辺寺 67番 小松尾山 大興寺

出発前に岡田のご主人の記念写真を撮った。道は大したことはないといいながら、きつい道のりとも言っている。実際に登っているので実感として判るのだろう。恐れさせずに、気を抜かさない配慮が読みとれる。朝7時出発。いよいよ最後の難関雲辺寺を目指す。結局、いろいろ道については、検討したが最短距離を登ることにした。車道もある別の車道もある。しかし、がんばったら2時間で登れるという。930mを目指す。民宿の標高からすると残り標高差600mくらい。尾根に上がる400mを辛抱すれば後は、車道できつくはないと励ましてくれた。横峰寺の下りを覚悟して行った。宿を出てしばらく街中を歩き、看板に従って左折すると、一気に急勾配の遍路道が表れた。先発隊は30分ほど前に出ている。3組4名。高速道路の下をくぐり、山肌を登って行く。上には目標の尾根が見えている。あそこまで行けば楽になると励まして行く。今までで一番辛い道のりかもしれない、勾配がかなりある。最短距離を行くのだから仕方がない。孝太郎君はしばらくして見えなくなった。1時間余り苦行は続いた。先発の人たちを追い越していく。いつの間にか足腰は強くなっているのだろう。焼山寺と比べてします。あのときは、無我夢中で歩いた。今回は、かなり冷静に全体を見ながら歩いている。親父さんもどんどん休みなく登ってくる。少し立ち止まると姿が見えてくる。台風が近づいていたが、小雨程度であった。雲辺寺の五百羅漢を撮る。リアルな実物大の像が林の中にある姿は、荘厳でもあり不気味でもあった。今度は、山の尾根伝いに下って行く。結構この道の方が辛かった。ぬかるんだ道と階段を駈け下る。滑るので、横峰寺で教えてもらった方法で歩く。歩幅を小さくして、前傾姿勢のまま小走りに下る。一番早く安全である。膝に来そうだが、体重移動を早くするので、片足にまとものかかってこない。今度は、海抜0mをめざすので時間は2時間以上かかった。やっと車道に出た。道ばたに老人が待ちかまえて手招きをした。何かと思いながら行ってみると、お接待にコ−ヒ−を飲んで行けという。毎日待っているらしい。「みんな喉をからからにして降りてくる。山の道には、水があるがお遍路さんは見つけられない。ここからも自販機しかないので、ここで待ってお接待しているのだ。」と言って2本目を勧めてくれた。後から来るから、その人にあげて下さい。と言い写真を撮って出発した。写真は送らなくてもいいというので、納め札を渡した。ここからも、下りは続いた。なかなかお寺に着かない。道に迷ったのかと思った頃やっと着いた。裏手から回ったらしい。ここで、岡田でもらったおにぎりを食べた。しばらく休憩して出発したが、台風の影響はほとんどなかった。寺を出てしばらく歩くと、親父さんが向かって来る。道を間違って大回りをしたらしい。疲労しきってしまい、いつもの柔和な顔が姿を消していた。最近、車に乗る癖がついてしまい。完全に歩くことがなかったので、なおさらつらさが身にしみる。台風の影響かもしれないが、太陽の日差しが強く道路の照り返しが厳しい。ここから観音寺の街まで8km歩くのは、かなり苦痛であった。我々も道に迷い遠回りをする羽目になった。途中、ものすごい風が吹き出しポンチョを装着する間に、孝太郎君とは離ればなれになり迷いながら宿を目指した。結局、途中で合流して聞きながら宿にたどり着いた。途中、この旅ではじめて、車のお接待に遭遇した。多分疲れ果てた姿が、後ろ姿にあらわれていたのだろう。丁重にお断りした。濡れネズミなので洗濯をしたが、乾燥機がないので、近所のコインランドリ−へ連れていってもらうことにした。家族でやっている宿で、なかなか締まり屋の旅館。近所の自販機に買い物に行っても、ないものが多く。伊予のけちとはこのことかと思った。親父さんは、結局相当遅れて宿に着いた。

宿泊地 藤川旅館 〒768 観音寺市架橋通り3082−11 TEL 0875−25−3548


 43日目 36282歩

2003年6月20日(金)曇りのち晴れ

札所 68番 琴弾山 神恵院 69番 七宝山 観音寺 70番 七宝山 本山寺 71番 剣五山 弥谷寺

72番 我拝師山 曼茶羅寺 73番 我拝師山 出釈迦寺

朝宿代を払おうとしたら、びっくりするほど安かった。最低料金だ。これなら文句は言えないなと思った。唯のけちではなく、仕方ないのだ。朝一番でお店に入りオロナミンCを頼んだ。お金を払おうとすると、年輩の女性主人が「お接待します。」と言ってお金を受け取りませんでした。昨日のこの町のしまり具合からして以外に思いました。シビアな面とお遍路さんに対するご接待は別なのかもしれません。ありがたくお礼を言って先を急ぎました。観音寺は母から聞く限り、戦争中父親が特攻隊に志願してこの地で船舶の教育を受けたそうです。特にお参りをして欲しいと言われていました。広々とした境内に、68番69番がありました。朝も早いので、お遍路さんは他に2名ぐらいしかいませんでした。小雨の中お参りをして写真を撮ってもらいました。1人になりたかったので、トイレに行くから先に行ってくれと孝太郎君にいいとどまりました。父親のことは言っていたので、察しがついたのでしょう、行ってしまいました。しばらく1人でボ−としていましたが、もう1人のお遍路さんの男性と話しをしました。もう1年1以上回っているのだそうです。好きな場所には、数日滞在しているので回るのに時間がかかるそうです。この観音寺は気に入っているので3日目だそうです。今日は雨が降るので図書館に行くと言っていた。お寺を出て次の札所を目指しました。川の側の道を歩き始めましたが、何故か涙が止まりませんでした。なるべく人のいない道を通りながら向かいました。70番札所の本山寺は立派なお寺でした。格式が高いのでしょう。工事中を避けて納経所に行くと、ライカですねという話しからしばらく話し込んでしまいました。チベット方面に行ったことがあるようで、ライカを持って行ったそうです。話しが長くなり、山門近くにもどると孝太郎君はすでに出発していました。入り口には、托鉢をしているお遍路さんがいました。風体から察すると一生をかけて回るお遍路さんのようでした。国道をひたすら歩くことになりました。途中、のどが渇いたのでス−パ−の前の店で、すり氷を頼んで食べていると孝太郎君が追いついてきました。番外に行ったようです。待っていたがなかんか納経所から出てこないので先に出発したそうです。ここで少し休憩をしてから出発。お接待に二重焼きを頂きました。暑い道をひたすら歩きました。孝太郎君は先に行ってしまいました。道ばたで、おばあさんにお接待と言って200円頂いた。集会所の入り口のベンチでパンと二重焼きを食べて、再び出発。坂を登って行くとどうも道を間違えたようなので、聞くと大きく外れていた。標識を見落とした。標識のある場所は、相当前に通過した記憶がある。仕方ないので、目標のお寺も方向を教えてもらい進む。山の中腹にお寺が見える。なかなか大変そうだ。麓にたどり着き、いよいよ登山。かなりの急勾配を登って行く。入り口から階段が600段近くあるらしい。息を切らせて登る。遍路道は、林の中にあるので少しは涼しいが蛇がいる。2m近いのもいた。気持ちが悪いので、杖を前にだして急いで上がった。階段の部分は、木陰でひんやりしているはずだが、登る方は大汗をかいて行く。途中の茶屋に孝太郎君がいた。時間からして納経は済ませているのだろうと思い行った。本堂に登ると、風が心地よかった。お遍路さんは誰もいない。30分くらい休憩をして階段を下って行った。孝太郎君のいた茶屋にはお客は誰もいなかったが、飲み物を頼み今後の道筋を聞いた。竹藪の中を行くことになる。蛇がいることを覚悟しなくてはならない。そうしている間に、孝太郎君が下って来た。この茶屋で昼食をとって2時間くらい話しをしていたらしい。一緒に遍路の竹藪を通過することにした。30分くらいと聞いたが、実際には15分くらいで無事通過。蛇に出会うこともなかった。ここから、アスファルトの道をだらだらと歩き、73番札所に向かう。途中で宿を見つけたので、孝太郎君は荷物を預けて来た。私は、カメラなどがあるのでそのまま登った。やはり標高差はあった。柴田さんから電話が入った。だいぶ追いついてきたらしい。波多野さんからも電話があった。53番まで行ったが変な人につきまとわれて久百々までもどったとのこと。久百々の女将さんに面倒を見てもらったらしい。大川さんも体調を崩し結局、久百々に1週間くらい滞在したらしい。その後の消息は分からない。もうどんなに急いでも我々には追いつくことは出来ない。がんばるよう伝えた。孝太郎君は、寺から遙か上に見える奥の院に行くと言う。私は無理なので宿にもどる。結局20分で登ったらしい。宿の隣が72番札所だったので、予定を変更してお参りを済ませた。宿はきれいでお風呂も、久々に広々としていた。お客は多かった。車で回る人たちがいた。歩き遍路は、我々と湯ノ谷温泉で一緒だった女性。

宿泊地 民宿 門先屋 〒765 善通寺市吉原町138−4 TEL 0877−62−2337


 44日目 24380歩

2003年6月21日(土)晴れ

札所 74番 医王山 甲山寺 75番 五岳山 善通寺(真言宗善通寺派総本山) 76番 鶏足山 金倉寺 

77番 桑多山 道隆寺 78番 仏光山 郷照寺

今日は一番暑いと覚悟して出発。1時間弱で74番に到着。到着の時に同宿の女性が出発して行った。足が遅いので早めに出発している。善通寺は、さすがに規模が違っていた。大きく貫禄があった。76番と77番の間のお遍路道に、善根宿まんだらがあった。最初目に入ったが行きすぎた。思い直してもどると、中からお坊さんのような人が出てきた。「逆打ちですか?」と聞かれた。「いや気になったのでもどって来ました。」と言う会話から案内されるままに部屋に入った。無料宿泊所とのこと。この世界では有名らしい。私は予備知識がないので知らなかった。話しの会う人で、コ−ヒ−をごちそうになりなが話した。デザイナ−が本職で、お遍路さんの絵を描いているとのこと。絵はがきになった作品も見せてもらいました。1時間ほど話しをして出発。バナナも頂きました。旧道をひたすら歩いて77番札所に着くと岸本の親父さんとすでに結願した九州の人が来ていました。孝太郎君は電話すると、かなり遅れていてまんだらに着いたばかり。とのこと。急いで追いつくという返事がありました。しばらくすると孝太郎君も追いついて来ました。私は、1人で出発78番に向かいました。またまた、道を間違えしまい通りかかった車の人に教えてもらわなかったとんでもない方向に行ってました。町中を歩くときは気をつけなくてはいけないことを痛感。お城の見える丸亀の茶店で食事をした。河尻社長からも旅の経過を問う電話がありました。坂出はゼクシ−で撮影に来た場所。懐かしく道筋を歩いた。しかし、78番までは遠くに感じた。ものすごく多くの人がお寺にいてしばらく待ったがいっこうに静かにならないので、あきらめてお参りした。ここから30分くらい歩いた所に宿があった。古い街並みが続き旧街道の面影を色濃く残していた。お寺からみんなで一緒に歩いていたが、親父さんが遅れ気味だったが突然いなくなったので、大騒ぎをして探したらちゃっかりと宿に上がっていた。私たちが見落としてしまったのだ。古い宿で、増築増築でお客をさばいた時代があった事を想像ささられる。我々4名のみの宿泊。

宿泊地 松竹旅館 〒762 坂出市八幡4−7−5 TEL 0877−46−2562


 45日目 16048歩

2003年6月22日(日) 曇り

札所 79番 金華山 天皇寺高照院 80番 白牛山 国分寺

すでに結願している井手サンをJR坂出駅に見送りに行き79番に向かうために出発。雨である。宿を出ると旧街道と標識があるが公園であった。公園を突っ切って街道に入ると、いきなりお接待にあった。老夫婦が待ちかねていたように手作りのお守りを下さった。貝を布で覆う気持ちのこもったお守りだった。一緒に記念写真を撮った。井手さんは最後のご接待だと大いに喜んでいた。朝から気持ちがいい。駅の喫茶店で時間を過ごして見送った。雨の中を出発。岸本親子は先に出発。商店街を抜けて札所に向かった。ご多分に漏れず、駅前の商店街は寂れている。サティばかりが大きく見えた。商店街の端にかかったとき、「お遍路さん」と呼ぶ声がしたので、振り返ると女性が駆けつけてきて「私は行けないので、代わりにお参りして」と100円を握らせてくれた。「確かに行きますから」と受け取った。蒸し暑い道を行くと79番札所についた。その前に名水の出るところがあるからと聞いていたがお店が幅を利かせていたので立ち寄るのはやめた。他のひともそうだった。後でテレビを見ると、トコロテンの美味しい店だった。札所に着くとみんないた。以前宿が一緒になり、写真を撮らせてもらった人に会った。最初、声をかけられたが一瞬判らなかった。まさか会うとは思いもしなかったので、びっくりした。。彼は休みごとに分けて回っているらしい。孝太郎君も「だれですか?」と聞いてきた。35番36番あたりで一緒だった人。というとやっと判った。小雨の中を出発。蒸し暑い。出発した頃に比べ遙かに暑い。途中喫茶店に入り昼食を孝太郎君ととる。彼もずいぶんと変わった。私はワッフル。1時間近く休んで、蒸し風呂のような外に出る。国道には60歳の女性が歩いていた。相当疲れて様子で、「先に行って下さい。」と言った。小さな丘を越えて行くと80番札所に着いた。大きな寺。国分寺だ。池には亀がたくさんいた。今日はこれで終了。のんびりと境内ですごして宿に向かう。あの女性はだいじょうぶだろうか。明日の白峰寺根香寺は大変と聞いている。せと国民旅館は、少し遍路道から外れていた。何とかたどり着いた、年輩の夫婦がいた。「ここは、肉・魚のない精進料理だけれどもいいかね?安くしとくから。」と言われ「いいですよ。」と答えてしまった。オレンジの照明がされた風呂に不思議な気持ちで入り、夕食に呼ばれて食堂に行って唖然としてしまった。食事が俗に言う朝食並だった。他に何かメインデッシュがあるだろうとしばらく待ったが結局出なかった。仕方ないので、聞いて近くのコンビニに行き不足の食糧を買い込んで部屋で食べた。明日の山登りで、頂上には何も無いことを聞いていたので昼食の確保もあった。宮本武蔵をやっていたので下のロビ−でおばあちゃんと見た。

宿泊地 せと国民旅館 〒769-01 綾歌郡国分寺町国分356 TEL 0878−74−0353


 46日目 30125歩

2003年6月23日(月)曇り

札所 81番 綾松山 白峰寺 82番 青峰山 根香寺

思った通り朝食は夕食と同じだった。年寄りにはちょうどいい食事なのだろう。もう1人お遍路さんがいた。早く帰りたいので急いで旅していると言っていた。やはり相当辛い道だった急勾配をひたすら階段を登って行く。尾根に登るまでの時間が辛かった。途中車道に出て少し楽になった。途中で再び遍路道になった。お寺までの1km位が急勾配を下る。今度はここを登って行かなくてはならないのかと思うと気が重い。気分のゆるみのあったのだろう。お寺は立派であった。次の根香寺へ行くのも、ひとつ山が違うので遍路道をひたすら歩く。平坦な部分も多く最後の急階段がなければ比較楽だ。車道にある休憩所で休み飲料水を飲み干してしまった。売店があったが、お寺に自販機があると思いから荷物になるので買わなかった。以外にも82番札所にはなかった。水も濁っていた。仕方ないので、水分なしでパンを食べる羽目になった。下りは今までで1・2を争う急勾配の遍路道。車道を通ると遠回りになるので、ショ−トカットした遍路道を小走りに下った。岸本親父さんは、転びそうになり車道を歩いたらしい。同宿だった男性は、道を間違えて遠回りばかりしていたので、途中まで一緒に行動した「が、下りになると追いついて来なかった。宿は、13時30分に着いた。町の駅のそばにあった。夜中中列車の音に悩まされた。

宿泊地 旅館百々家  〒761 高松市鬼無町藤井54−1 TEL 087−882−0874


 47日目 38680歩

2003年6月24日(火)雨のち曇り

札所 83番 神亳山 一宮寺 84番 南面山 屋島寺

25kmくらい歩いた。宿を出てから地図を見ながら昔の遍路道をたどった。曲がりくねっていてロスが多い。直線なら早く着くだろうと思いながら6km歩いた。途中でみんなバラバラになった。雨も降り出し道に迷った。遍路マ−クもない。聞きながらやっと83番札所に着いたが、すでに岸本親子今村さん(60歳の女性)もつい納経も済んでいた。別々に出発。84番札所に向かうが、なかなか道が見つからない。バイパスが出来ているので、持っている地図が役に立たない。道を聞いても要領を得ないので、思い切って会社に飛び込み聞いた。地図を見せても、よく判らないと言われた。ただこの道を真っ直ぐ行けば、高松市内に行けるからと言われたので信じて行く。1時間ほど歩くと高松市内に入り、繁華街を抜けると国道11号線に出た。途中雨が降りポンチョを来たり脱いだりが大変だった。蒸し暑さが襲いかかる。ここからは、屋島が見えてくる。5km位歩くと屋島の麓に着く。屋島は台形なので登るのが大変と聞いていた。池のそばのベンチに座りドリンクとお菓子を食べながら孝太郎君に電話をすると、今まさにその坂にチャレンジしていた。激しい息使いが聞こえてくる。長い急勾配だと言う。あと100mで到着と言っていた。私も昼食を済ませ、一気に頂上を目指した。標高差300mを登る。道路の傾斜は21度と明記している。すぐに息が上がった。階段はないらしい。上から降りてくる女性に「まだありますか」と聞くと今3分の1くらいかなと言われた。私は30分であがります。と言われた。40分はかかるな思いつつがんばる。道は、歩く安くしてあった。滑らないように舗装は加工されている。しかし、直線でひたすら登って行く道も苦しいものがある。時々蛇行しているが、ほとんどまっすぐ。あと何百メ−タ−が励みになる。階段もいくつかあったが、さほど影響なく登る。さすがに一度途中で休憩。若い男性が、汗もかかずに平然と登って行く。荷物を持ってないとはいえ日頃の訓練のたまものだと感じる。札所には、孝太郎君が納経を済ませて休憩していた。しばらくすると親父さんが着いた。「私にはこの坂は無理なのでケ−ブルカ−で登って来た」と言った。息子は、不機嫌だったが、ここに来て文句は言わなかった。今村さんは、それからしばらくたって、歩いて登って来た。達成感は大きい。広々とした境内でゆっくり休み、休憩所に行き孝太郎君と昼食をとりとコ−ヒ−を飲んだ。親父さんはケ−ブルで降りるのだろう話しながら時間を過ごし、境内にもどったがすでにみんないなかった。急いで急勾配を下り宿を目指した。下りの途中、年輩の男性が、お接待にと干し梅を下さった。宿は、ケ−ブルカ−の駅の前にあった。こぎれいな旅館だった。帰りモ−ドに入っているので、妙な割り切りが目立つようになって来た。今村さんも同じ宿だった。部屋の前に大きな蜘蛛がいたので、宿の人に頼んでどけてもらった。

宿泊地 ささや旅館 〒761-01 高松市屋島中町ケ−ブル駅前 TEL 0878−41−9533


 48日目 29092歩

2003年6月25日(水)  晴れ

札所 85番 五剣山 八栗寺 86番 補陀洛山 志度寺 87番 補陀洛山 長尾寺

身体のだるい状況は続く。85番札所は、思った以上に高い場所にあった。宿を出て、町中を30分ほど歩くと、山に登り始める。標高差は250mくらい。急勾配である。途中、ケ−ブルカ−の駅があった。ここで水分を準備して出発した。やはり21度の急勾配の舗装道路を一気に登って行く。雨で濡れているので滑る。先に出発した今村女史に札所手前で追いつく。境内は、落ち着いたたたずまいだった。本堂と大師堂が少し離れていた。タイミングがあい、今村女史と同時期にお参りすることになった。すする泣きが聞こえる。重たい思いを持っての旅だろうと察するが聞くことは出来ない。出来るだけ邪魔をしないように、自分なりのお参りを済ませた。何となくみんな感傷的になっているのを感じる。次の札所に向かう。今度は車道を通って行くことになる。これもかなりの急斜面をしばらく下って行く。途中、私は休憩をしたので孝太郎君とも別れみんなにも抜かれてしまう。二股の道があり迷っていると今村女史が違う道を行っているので、呼び返したが結局この道が、遍路道と判明。国道まで一緒に歩いた。国道のそばに旧国道がありその道を、ひたすら歩くと昔の街並み繁華街があった。その先に札所はあった。やたらと蚊の多いお寺。しばらく休憩をした後、最後の長尾寺を目指して出発。暑いので孝太郎君と喫茶店にはいり、アイスコ−ヒ−を飲む。昼食には早い。お客さんの女性話しをした。お遍路が入ると、ちょっと雰囲気が変わるのが判る。話しをしたいようである。しばらく話しをして出ようとすると、その方がお接待だと言って代金を支払っていることを知り、お礼をいい納め札を渡す。そうすると逆に「錦札・金札・銀札」を下さるという。私は頂いたことがあるので、孝太郎君に3枚を譲り、私は錦・銀の札2枚を頂いた。みんなと記念写真をとり、焼け付くような国道を進んだ。途中旧お遍路道があったので、その道を進んだ。狭い田んぼの間を進むような道だった。このあたりは、ずっと登りである。遍路道の方が、緩やかな登りになっていて車道を歩くよりかは多少楽。なかなか着かない。途中、宿の手間の喫茶店で昼食をとった。ランチが大変多く食べきれない、食後のコ−ヒ−もついている。親父さんが抜いて行く。「親父歩いている。」と嬉しそうだった。30分後満腹で再出発。しばらく行くと、コンビニから親父さんが出てきた。かなりの千鳥足。看板を見ると「酒」と書いてある。孝太郎君の顔がくもった。「親父飲んだだろう」無言。そのまま追い抜き87番札所に着いた。白峰寺で道に迷っていた男性と会った。帰りたい一心もあり、先を急いだ人だ。88番札所を終えて帰るところだった。道案内を感謝された。宿は札所の目の前。般若心経を読む親父さんを撮ろうと近づくと「勘弁してください。」とはじめて親父さんに言われた。「はい」と引き下がったが、数秒後「いいですよ」と言って撮らせてくれた。涙でぐしゃぐしゃになっていた。「藤原さん、ありがとうお世話になりました。明日は、お友達が一緒に歩くので、今日が最後ですね。」と顔をぼろぼろに崩しながら言った。「こちらこそ、二人に励まされてここまで来れたんです。私1人では、ここまで来れたか判りません。ありがとう。」という言葉が自然に出ました。宿に着くと、宿の女将には「親父が、別勘定で酒を頼んでもださないで下さい。」と頼んでいる。ショ−ケンも泊まったと自慢していた。何軒かそんな話しを聞いた。ジュ−スはお接待価格で100円。この夜10時過ぎに福山から香山さんたち広島からは杉川さんが、明日1日体験同行の為宿に着いた。旬遊の創刊号も持参してきてくれた。最後の難関760に挑戦しなくてはならない。本人たちは、それほどの自覚はないだろうと察する。

宿泊所 あずまや旅館 〒769-23 大川郡長尾町西 TEL 0879−52−2415


49日目 26774歩(全行程合計歩数 1700243歩) 

2003年6月26日(木)晴れ

札所 88番 医王山 大窪寺

前日までは、雨の後なので遍路道(崖を登るところあり)は避けて、4km位余分に歩いても、車道を行こうということにしていた。しかし、朝食の時、天候は晴れなので、若い連中は苦難の道を行くと言いだした。今村女史も親父さんも行くと言いだした。女将さんも、きついけれど思い出にもなるしと言われて、遍路道を行くことにした。同行の二人も行くと言っている。多分、経験がないので簡単に思っているようだ。黄身の2個入った卵を願掛けにだしてくれた」。オロナミンCも出た。万全の体勢である。みんなで記念写真を撮って出発。香山さんの同行人は、車で先回りをする。5km程平地を歩く。まだみんな一緒。この日は、他に2名の若者もいた。しばらく歩くと、親父さんが遅れだした。二人は、何とかついてきている。孝太郎君は、旧道に入ったがまもなく合流。ダムのところで、別れた、我々は道の駅に行き、水分の準備とトイレタイム。親父さんは、相変わらず休まず抜いていった。ここからが山岳地帯に入る。杉川さんは、この時点で少し不安が出ていた。いよいよ遍路道に入る、しばらくは軽い勾配の車道を歩いた。いきなり30cm程の本当の遍路道に入った。急勾配のあぜ道のような感じである。その後は、階段がと急勾配の道が谷間を登って行く。一度谷に降りて、再び登り。時々車道がある。林道であろう。遍路道は、ショ−トカットの状態で、最短距離を行く標高差は400mくらいある。杉川さんが相当遅れた。車道にするか遍路道にするかを決めなくてはいけないので、香山さんと杉川さんの到着を待った。しばらくすると、疲れ果てた杉川さんが到着。3km弱の車道にするか1.8kmの遍路道にするかを聞いた。女体山の頂上に行く遍路道と避けて88番に行く車道である。岩場が出てこないので、多分この1.8kmの中に含まれているのだろう。結論は、今村女史も遍路道を選んだ事もあり遍路道を行くことにした。出発してしばらくして、先に出発した今村女史親父さんを抜いた。険しい階段道を登ると、岩場に出た。どこに道があるのだろうかというような岩場。少し階段のようなものがあるが、まず足場が悪い。露出した木の根っこを持ち、打ち込まれた鉄筋をつかみ何とか登って行く。ロ−プもしばってあった。距離は数百メ−タ−だと思うが、どこまでも続く錯覚に襲われる。頂上には、休憩所があった。杉川さん以外は、何とか到着した。親父さんは、ガソリンを入れるんだと、ワンカップを開けて、一口飲んだ。杉川さんが遭難した場合の事を冗談で話しをしていたら、あがって来た。大した根性である。マイぺ−スにしたのがよかったみたい。50日近くも歩いていると、自然と脚力がついている。香山さんは若さでついて来ている。孝太郎君に電話をすると、奥の院いてまもなく本堂につくらしい。とにかく急な階段を下るだけのようだ。下りの要領に合わせて、小橋に駈け下る。標高差は300mくらいはあるだろう。奥の院は、標識を見落として行けなく、いきなり本堂についた。88番札所は、ごった返していた。49日間歩いた感傷にふける余裕もない。納経。結願証明書を発行してもらう。岸本親子の最後の写真を撮った。優しい顔になっていた。親父さんは「泣くぞ」と言っていたが、みんなも含めて淡々としていた。私自身も最後の般若心経かと思うと涙も出たが、思ったほどの感動はなかった。終わったという安堵感が強かった。みんなで、門前のうどんやさんで、ビ−ルとうどんで打ち上げをした。私は、このまま香山さんたちと福山まで一緒に車で帰る。岸本親子は、1番札所まで歩いて行きお礼参りをした後、和歌山にフェリ−で渡り高野山で最後の納経をすます。あと3日はかかるだろう。88番から1番までは41kmある。1泊2日の旅である。今夜は、88番の札所のそばに泊まる。今村女史は、87番に戻り、そこから電車に乗って帰るらしい。30番からまわりはじめたので、本当は、このまま引き続き1番から回る予定だったようだが、いったん帰るらしい。他の若者も、このまま今日は下り、1番に出来るだけ近づいて泊まるらしい。我々は、車で高松に向かう。途中温泉に立ち寄って、汗を流し着替えて出発。香山さんの同行人の配慮だった。高松の途中一宮寺の前を通過した。何日か前、道に迷った所である。あっという間に来てしまった。高松・坂出四国連絡橋を通り福山から、杉川さんと新幹線で広島へ。母親が迎えに来るというので、駅の構内で白装束に着替えて母の出迎えを受けた。高野山には、後日母親も一緒に行くことになっている。