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第2章 スペイン編
10月8日(土)
Departure
Milan Malpensa(Terminal 2)(11:35) arrived in Barcelona
Go to Tarragona (stay a friend's house)
バルセロナ空港にモンセが迎えに来てくれていて、100km離れた、タラゴナへ向かう。
港で昼食後、モンセの自宅に行き、荷物を置いてタラゴナを歩いて観光。
早朝、朝食を済ませ支払いをした。
1日50ユーロ、3日分で150ユーロ。チップを含めてお金を渡すと、必要ないと150ユーロ以上を受け取らなかった。
女将のウィルマは中国が好きなようで、部屋の中には東洋的なものがたくさん飾っていた。
私の中国の写真を入れたホームページの話をしたら見てみたいとパソコンを持ち出してきて開いたが、
こちらの都合で閉鎖したことを思い出し、日本に戻ったら開いて知らせると約束をした。
そして私が作った宮島のお土産でもある「幸紙」をプレゼントしたらものすごく喜んでくれた。
飼い犬のバレンティーナも人なつっこく、ものすごくいかつい顔をしながら、なついてくる。
写真を撮ると照れ臭そうに顔をそむける。バレンティーナを女房と記念写真を撮る。
女将の話によると、10年前に別れた旦那が誕生日プレゼントをしてくらたという。
今となっては、旦那の思い出のようだ。
旦那は、ニースでスポーツインストラクターをしているイケメン男だそうだが、若い女性と一緒になって出て行ったそうだ。
女将は昔ツーリストの仕事をしていたそうで、熱烈な結婚だった雰囲気。
今は、娘パオラ夫婦と孫のリンダと暮らしている。
プライベートホテルと言って、自宅の一部をホテルとして開放していると言っていた。
他に下宿人のような男性が2名いた。一人はイタリアンレストランのシェフと言っていた。
アルドガ迎えに来てくれた。
メラーテから1時間30分かかるマルペンサー空港まで車で送ってくれるという。
お言葉に甘えることにした。
高速道路をひた走り、マルペンサー飛行場には、9時前に着いた。I JETを使ってバルセリナまで行く。
リュックなので不用心なのでビニールで梱包をしてもらい、荷物を預けることにした。
9ユーロを2個分支払った。
そのまま、受付カウンターへ行き、チェックインの手続きをする。
アルドは心配そうについて来てくれた。
荷物を預けパスポート、搭乗予約券を渡すと何か言い出した。
イタリア語で話しかけてきたが通じないので、スピークイングリッシュ?と聞いて来た。
首を振ると困ったような顔をした。
30ユーロと言っているらしい。
アルドがきいてくれた。
ネットで予約をとるときに、英語で意味がよく分からなかったので、いい加減に記入したことが間違っていた。
普通、飛行機では、一人一つの荷物を預けることが出来たので、BAGの部分に@と記載したが。
合計の数だったのだ。ESYJETはヨーロッパではバス代わりのように簡単に使うので、日本では信じられない価格。
ミラノ・バルセロナ片道二人保険込みで、118ユーロ(荷物1個分も含まれていた。)6000円弱。
その分、すべたがオプションになっていて、加算されるシステム。
1個分の料金しか払って無かったので、もう30ユーロ支払う必要があると言っていたのだ。
手続きは、別の場所でするようにと指示され、行って支払った。
チケットとパスポーとを置いて行ったが、わざわざ持って来てくれた。
私のミスだった。
少し時間があったので、3人でコーヒーを飲んで分かれた。
搭乗口に向かうが、国内線並みの受け付け口で、3便分の人でごった返していた。
日本人は見当たらない。
さあ、ここから単独の旅が始まるのだと実感。
1時間30分程度の搭乗。行列に混じり、なんとか飛行機に乗った。
100人乗りくらいの中型飛行機、1列各二人づつの4名。11:55発。
食事もなにも出ない。すべて注文の有料になる。
1時間30分は、あっという間に着いた。ひと眠りだった。
予定通り、バルセロナ・ブラット空港に着いた。
ミラノのマルペンサー空港に比べと大きく美しい。そして日差しがたくさん入ってくる。
時間帯もあるのか閑散としていた。荷物を受け取り、トイレを済ませて出口に向かった。
モンセは来てくれているか心配だった。モンセの住んでいるタラゴナは100kmも離れている。
モンセは、昨年会った時よりのオシャレをしていたので、最初わかなかったが、手を振ってくれたので分かった。
1年半ぶりの再会。今年で37歳になる。
ジオグラフィーセラピーの仕事をしているので、時間帯からも迎えは難しいと思い、
タラゴナまでは列車で向かうつもりでいたので、助かった。
ここからはスペイン語だ。
気温は30度を超す暑さ。日差しも強く。サングラスが必要というのがよく分かった。
駐車場まで行く間も、相変わらず話しかけてくる。
もっと英語が得意かと思っていたが、案外スペインなまりが強く聞き取れない。
運転をしながらずっと話し続ける。
半分くらい分かると言うと笑っていた。
タラゴナまでは高速道路に沿って走って行く。明るい日差しは、ミラノとは全く違う。
車はあまり掃除をしないようで、ウインドウには泥がついて見づらい。
写真はとても撮れない。なんとなく潮の匂いがするようで安心できる。
街は独特の赤茶(ベンガラ色)の屋根で統一。街には一段と高い教会が必ずある。
1時間ばかり走り、タラゴナの町に着いた。
地図で確認をすると小さな町で、端から端まで歩いても1時間程度と書いてあったが思ったよりも大きい。
建物が石作りであり、城壁国家の名残でムラヤと呼ばれる、
高い城壁が町を囲んでいる。
昼食をまだ食べてないことをしり、レストランへ行くことになった。
港には大きな船から、ヨット漁船などが停泊している。
お目当てのレストランが、港のそばにあるので行ったが、路上駐車場が無くしばらく走った。
結局地下有料駐車場に置いた。3分くらい歩いてレストランへ行った。
満席。
数分待ったら席を空けてくれた。子供を含めた家族6名くらいが片方の隣。
反対側は、8名くらいの子供を含めた家族。その間に挟まれて座った。
アルミスチールの簡単なイスとテーブルだが、普通らしく、店の中乃テーブルに座る人は少ない。
子供たちは、絵を一生懸命書いていた。1枚写真を撮ったら恥ずかしそうに見た。
反対側の大家族は、祖母の誕生祝いをしているようで、手作りのケーキをひ孫らしい女の子が花束を二人で渡していた。
さっそく無断で写真を撮る。カメラマンの血が騒ぐ。
別に文句を言うでもなく、ニコニコ笑っている。
ついでに記念写真も撮ってあげる。あとでモンセに頼んで渡してもらうことにした。
祖母は、若いころ7年間位日本に住んでいたと言った。
それではと、持参していた幸紙をプレゼントしたら喜んでいた。
祖母の姉妹らしい女性もいたので、もう1枚あげた。記念写真も撮った。
私たちの注文は、スペインのビール、サラダ、パエリア・イカの天ぷら。
とにかく美味しい。
1時間ぐらい食事をしてから、駐車場に戻り、モンセの自宅に向かった。
事前に住所から地図で探したが見つからなく、どんな場所かも見当がつかなかったが、繁華街のビルの5階にあった。
狭い階段を歩いてあがる。
リュックが重く、ふうふう言いながら登った。エレベーターが無いのは普通のこと。
なにしろヨーロッパの建物は、築数百年は当たり前。
当初、女房も若い女性の部屋に泊ることに抵抗があると言っていていた。
昨年、巡礼の時に、泊りに来いと言ってくれていたので、問題はないと言った。
まして夫婦で行くことは承知の上なのでとも。
バツイチと聞いていたので、お母さんと同居していると思っていたら、一人暮らしだった。
狭い。粗末な家だと本人は言っていたが、部屋は広く、部屋数も十分。家族で住める広さだ。
寝室(2)・居間・キッチン・倉庫。インテリアもこっていて私たちを喜ばせてくれた。
こんな部屋に住みたかったと女房もいう。私が昨年、スペインに来て置くべきだったと言う。
寝室のベッドは、日本では見たことのないような形と高さ。
床から20cmくらい。壁の色は、城ではなくベンガラ色。台所の窓からは遺跡公園が見える。
しばらく休憩をして。夕方から街中に出ることにした。
スーパーマーケット外観
暗くなるころ、外出タラゴナ一番の繁華街に行く。
ランブラ・ノバ(RANMBLA・NOVA)。沢山の人がこの通りに集まり話しをしたりしている。
モンセはタラゴナでは有名人らしく、声をかけてくる人が多い。
タラゴナの歴史では欠かせない王の像についてモンセは熱く説明する。
海の見えるテラスのような岡に出た。インペリアル・タラコ広場。
潮の香りがする。街の観光スポットは美しいライトアップをしている。
城壁に沿っても散策。今は、城壁の中を安価で貸し出しをしているそうで、住宅や店になっている。
タラゴナには、観光客はほとんどいないようで、地元の人しか見当たらない。
治安も全く心配ない。Major通りにはいり(城壁の中)、古い町並みやカテドラルがあった。
2時間くらい歩いて、モンセの交際相手と合流。
4人で食事をした。古い作りの店に入り、注文、私たちは、ついビールを頼むがスペインの人はワインを普段飲んでいる。
自慢の料理を食べさせてくれる。なにしろ料理の量が半端ではないので、事前に話しをする。
モンセの病気について彼に聞いてみた。
彼はスイスでスキーのインストラクターもしているので、日本人のことは少し分かるようだ。
インターネットで調べて教えてくれた。
彼の携帯には、日本語の病名が出た。多発性硬化症。パーキンソン病のようだ。
内臓などどんどん硬直して行く病気で、そのためにお腹に針を刺して刺激を与えているのだと言う。
ホーキンス教授と同じ難病だ。
そんな病気を抱えていたとは全く知らなかった。
みんな、必ず確認をしてくる。
味はどうか?まだ足りないか?遠慮をしていたら大変なことになるので、正直に答えるようにする。
そして必ず「美味しい」という。
そうすると、もっと食べろと次が出てくる。
ミラノで失敗したので、腹事情をしっかり説明する。
歩いてモンセの自宅に戻る。10時を過ぎていた。
就寝。
TARRAGONA:バルセロナから約90km、こすた、ドラダに沿って南に下るとタラゴナに到着する。
イベリア人が住んでいたこの町が、ローマ帝国によって征服されたのは紀元前218年のこと。
以来タラコと名前を改め、タラコネンシスの首都として栄えた。
当時はイベリア半島最大の規模を誇ったタラゴナだが、5世紀には西ゴート族、
または8世紀にはイスラム教徒の侵入を受け、町は破壊されてしまう。
しかし中世以降はカタルーニャ王国のもと、その良港を活かした地中海貿易で再び発展した。
以降の写真の続きは未掲載
10月9日(日)
Tarragona (a friend's home stay)
バルセロナに車で行き、モンセの日本人の友人の案内で、カテドラルなどを観光。モンセラーテに行く。
8時起床、8時30分朝食を食べて9時出発。
車でバルセロナに向かった。海岸線から離れた、昨日とは違う高速道路を使って行った。
モンセは元気。
途中では、見える景色の説明をしてくれた。
あれが高速道路から見えるモンセラーテ
10時、バルセロナに到着して三郎夫妻と合流した。
モンセの友人。三郎さんの奥さんが大学でモンセと同期だったとかで親しい。
年齢は違うが、奥さんが小学校しか出ていなかったが、一代発起して大学に行った時に、
学業についていけない奥さんをサポートしたのがきっかけで親しくしているらしい。
三郎さんは、若いころ全共闘系で学生運動をしていて、裁判等を経てスペインへ来たという。
生活のために調理人になり、今も続けている。
年齢は65歳くらい。
三郎さんの通訳で、問題点を話し解決をしてもらった。
やはり、細かなことは言葉が通じないので、完全には通じていない。
三郎さんは、バルセロナの必見の場所。そして日本人が行かない素敵な場所に連れて行ってくれた。
カテドラルのある旧市街。地下の駐車場に車を置いて行く。
ピカソの作品
かなりスリ等の多い危険地帯だと言われた。
荷物は、しっかり前に持ち、カメラにも気をつけるように注意された。
そして、歩きながら、この連中がスリ、泥棒だからと日本語で説明した。
黒人の物売りも多い。建物にはピカソの壁画もあった。
基本的には、街の中心は丘になっており、大衆は登ってお参りをしていた場所。
細い路地を通りながら説明を受けた。
観光客は多い。
路上芸人も多く、歌・楽器演奏・シャボンをしている人もいる。
乞食もいる。
まさに観光地であった。
町の地下に柱が残っている。
1時間ぐらい散策をしてから、広場でコーヒーを飲んだ。
休憩。その後、大通りに出ると騎馬隊の演奏行列があった。
真っ赤な制服を着てきらびやか。大勢の人がいたが、合間を縫って写真撮影をする。
近所のガウディが作ったグエル邸を見に行った。
グエル邸
三郎さんに言わせると、ガウディのエキスがすべて入った建物だそうだ。
入場料が30ユーロ。三郎さんは高いと驚く。
昔は無料で入れたと言っていた。
スペインでは、国の補助が無いので、各自が保全をするために入場料を徴収していると聞いた。
説明を聞くと、ガウディは当時劣等生だったという。
しかし、ガウディ家に培われた技術と技術者が多かったのが現在のガウディを作ったという。
そして、産業革命も影響して、鉄の加工技術は素晴らしく、鉄を捻じ曲げたりできた。
一見すると補強工事にも見える。少しガウディのイメージとは違っていた。
しかし、繊細な加工能力とアイディアはすごい。
また、そのような奇抜にも見える作品を受け入れるスペインという国が素晴らしい。
屋上には、見慣れた奇抜な形のオブジェがたくさんあった。
どこからこんなイメージがでてくるのか聞いてみると、自然の形からヒントを得ているそうだ。
見学が終わり、三郎さんの自宅訪問。13時ここで三郎さんの作ったスペイン料理をごちそうになった。
三郎さんのお母さん98歳がNHK番組を見ていたのには驚いた。
ゆっくりしすぎて、一番の目的地であるモンセラーテに向かう時間が遅くなってしまった。
神の山にぜひ連れて行きたいとモンセが言う。
同じ名前の場所であるのも気にいってるのだろうか。
15時出発。バルセロナから車で、1時間弱。急いで行ったが日没が近づく。
朝、バルセロナに行く時に見えていた、見るからに神の山。
頂上付近は岩が集まった山。気持ちは焦ったが、言葉の障害でうまく伝わらない。
頂上まではケーブルカーで行けると聞いていたが、どうも最終便が出てしまったようだ。
車で登って行く。
かなり登ったところに大きな教会と町があり、たくさんの駐車場には車があふれていた。
車を止めておくので先に行けと言われ車を降りて行ったが、どうも食べすぎたのか腹具合が悪く、レストランのトイレに行った。
でてくると、モンセは私を追い越していた。
そこから頂上まで行くロープウェーも終了しているらしく。
モンセは、何も言わなかったが教会に行こうと言い出した。
大きな教会だった。
ミサが始まったのでしばらく後ろに立ってミサに参加したが、出て写真を撮りたと言ったが、すでに太陽が沈み始めていた。
合わせて、山の向こうに太陽が沈むので日影になってします。
モンセに頼んで反対側に行きたいと言った。
バルセロナ近郊 神の山 モンセラーテ
モンセは全面的に協力をしてくれるつもりで、車で急いで向かってくれた。
しかし、山は大きく、反対側に着いた時は、すでに太陽は沈み夕焼けも終わっていた。
モンセは悪そうにしていたが、私の判断ミスなのだから、気にすることにはない。
また、次のチャンスを待つからと言った。
モンセは、もっと長い間の滞在して撮れと言ってくれた。
そのまま、タラゴナに帰った。
19時だった。モンセもずいぶん疲れていた。
途中携帯電話で彼と話しをしていた。
彼も親の面倒を見るので、今夜は会えないと言っていた。
食事の事を気にしていたが、三郎さんの食事が多く、おいしかったのでいらないと伝えた。
帰る途中、モンセンの仕事場に寄ることになった。
車を近所に駐車してから仕事場に行った。
三人兄弟で仕事をしていると言って案内してくれた。
姉と兄がいてマッサージの仕事をしていた。
たまたま来たお兄さんに会い挨拶をした。
お父さんが、有名なサッカーの選手で、一時タラゴナチームはバルセロナよりも強かったらしい。
その後、引退をしてマッサージ師になったそうだ。だから地元では、相当有名な人物だったらしく。
私たちがスイスに行った頃に、タラゴナではお父さんをたたえる行事があるらしく、モンセも私たちと別れても忙しい日々を過ごすことになる。
その行事が終了すると、2週間くらいドイツに旅行に行くと聞いている。
明日の、バルセロナ出発について相談をする。
モンセは、お父さんの記念行事があるのでと言うので、出席した方が良い用意だったら、
明日の出発を午後にしてもかまわないと伝えたが、うまく伝わらない。
結局、分かったのは、あすは行事の打ち合わせをするだけということがわかり、会議の前に出発っすることにした。
モンセから送って来たポスター
グエル邸:本来はすでにあった本館につながる別館として計画されていたが、完成するとグエルは大変気に入り、
こちらを本館として使用した。年の邸宅にふさわしく、内外ともグエル所有の採石場から出た大理石が全面的に使われている。
室内だけではなく、正面のふたつの入り口にもパラボラ型が採用され。
ガウディの造形言語として定着した。
地下は馬小屋、1階は馬車庫、中2階はグエルの執務室、2階は中央サロンを中心としたパブリックスペース、3階は寝室。
4階は使用人の部屋と厨房にあてられた。また、バルセロナにおいては極めて早い時期にエレベーターが用いられている。
無数の彩光用の穴から開けられた中央サロンの天井は、アルハンブラ宮殿を思わせる。
西洋石造建築でありながら、ガウディは常にイスラム建築の精神が見られた。
また、前作のグエル邸で別邸で発見した破砕タイルの手法は、屋上の換気塔や煙突の自由自在な造形を生み、
タイルだけでなく砕石も使われている。
10月10日(月)from Tarragona
to Barcelona (hotel stay)
バルセロナに汽車で行き、観光バスでバルセロナの観光。
駅まで歩いて10分くらい。
7時に起床して、朝食。パンとヨーグルト、サラミのようなものを食べてから自宅を出た。
近所のス-パーへ行き買い物。歩いて駅に出た。
チケットはフリーチケット。
機械で購入してホームへ出た。
ヨーロッパでは、改札口が無いのでホームまで誰でも出て行ける。
モンセは、私たちが言葉もしゃべれない、切符1枚を購入できないことを知っているので、心配そうだった。
列車が入って来た。
これでお別れ、今度会うことはないだろう。女房もモンセも涙ぐんでいる。
]
2日泊めてもらった、モンセとお別れの日(女房が撮影)
お父さんは、有名なサッカーの選手だったそうで
二日後には、町をあげてのセレモニーが準備されていた。
参加出来なく残念。
2日間一緒にいたが、本当に家族のように接してくれた。
列車は通勤列車のような雰囲気。
急行なので1時間ほどでバルセロナのプラザ・サンツ駅に着いた。
あらかじめ、本などでサンツ駅の見取り図を見ていたので、列車を降りて地下のメトロ乗り場に向かった。
ここからは、誰も助けてくれない。
用心深くあたりを見回しながら、地下に降りた。
宿泊先は、サクラダファミリアの次の駅を降りて10分くらい歩いた場所にある。
前夜、モンセにパソコンで見せてもらい。ホテルの外観を写真に撮っていたのでそれを頼りに探すことになった。
メトロをよく使うことが分かったので、10回乗れる回数券を買うことにした。
本をみると、カードか現金で買えると書いてある。地下道で探すと、販売機が見つかった。
もちろんスペイン語で案内が書いてある。
10回チケットの絵を見つけてボタンを押したがお金の入れ方が分からないので、そばにいた職員に聞いた。
ここにお金を入れろ指さしたので、お金を入れるとチケットが出てきた。
女房と二人で使うと、5回乗れる。
改札口でカードを通しでてきたカードを女房に渡し機械に入れる。
誰が使っても問題なく、みんなやっていること。心配だったが問題なかった。
メトロは複雑のようであったが、親切に案内がしてあって乗りたいコースの番号が壁に貼ってあるので、指示通りに行くと乗れる。
反対方向に行かないように表示板は、行く方向しか書いてない。
最初戸惑ったが、理解できたら簡単。5番に乗り7番目で下車。
車内にもホームにも丁寧に案内しているので不安は感じなかった。
メトロの危険性も本や聞いていたが、時間帯の寄るのか全く不安もなく汚くもなかった。
6番目のサクラダファミリアでは観光客らしい人たちがたくさん降りた。
7番目で下車して地上に上がったら方向がよくわかない。
目標は病院の横なので、病院を地図で確認。合わせて病院はどちらか聞いたら親切に教えてくれた。
少し坂を登り病院(サン・パウ病院)の横を抜けて行くと、白いホテルが見えた。
チェックインまでは、時間があるので荷物を預かってもらい、ソファーで休憩。
となりに座った東洋系の女性二人が座った時に「よいしょ」と言ったので、「日本人ですか」と聞くと、
そうだと言うので情報を収集することにした。
二人は、フリーツアーでバルセロナに滞在、送り迎えのみをしてもらるということ。
今から、空港まで送ってもらい日本へ帰ると言うことだった。
どこが良かったかとか?メトロは安全ですか?などと質問をした。
バルセロナは泥棒の危険性を言われ脅かされてたので不安であった。
一人ではなく、女房がいるので必要以上に不安だった。
トイレを済ませ、必要な荷物のみにしてホテルを出た。
昼食をどうするかを考え、途中のBARですることにした。
サンドイッチとビールを頼み、座って食べた。
昨年のBARを思い出すような小さな店。
女房にしては不満な店かもしれないが、バックパッカーの旅としてはこんなものだろうと思う。
お店の人も、不思議な人たちが入って来た雰囲気だった。
メトロに乗り、次の駅であるサクラダファミリアに向かった。
本日は、モンセが用意してくれた観光バスに乗って、まずバルセロナ全体を見学、お好みの場所をチェックして翌日、
ポイント観光をすることにしていた。
サクラダファミリア聖堂をまず、外から見てから、周遊観光バスに乗ることにした。
ガウディパンフ
サクラダファミリア聖堂の入場口には100m近い行列が出来ていた。
まず、外観を見てから、2階建ての赤いバスに乗った。
北廻りと南廻りがあり、1日乗り放題。
途中下車も可能。
同じようなバス会社があるようで、間違わないように言われていたので、バス停でスタッフに確認をした。
15分おきにバスは運行されているので満員だったら次を待てば良い。
2階はオープン天井なので見晴らし良い。
しかし、暑い。
35度くらいは有るのだろう。半袖になっても暑い。
直射日光はものすごいので2階はあきらめて、1階に座った。
見晴らしは悪いがクーラーがきいているので心地良い。
北廻りで行く。グエル公園方面。見どころが少ないのか、あまり乗客は多くなかった。
町中をバスは走りまわり観光する。地図を見ながら、現在位置を確認する。
途中南周りに乗り換える。見どころが多いのか観光客も多い。
丘に登り展望の良い場所や、港界隈を廻り夕方になった。ディアナゴアル駅の付近で下車した。
そして、近くに有るガウディの製作建物であ有名なカサミラに行った。
どこか探しても分からないので、通行人に聞くと、道路の反対側を指さした。
指した方向を見たら、見覚えのある建物があった。建物前には観光客が大勢いた。
まず、腹ごしらえすることにして、近所を探し、気に行った店に入った。
今回は店の中に入り、ビールとサンドイッチを注文した。
店には、ガウディ風の雰囲気にしてある。
天井にはトカゲのオブジェ飾ってあった。
休憩も兼ねた昼食を済ませて、カサミラに入場した。
建物は真ん中が吹き抜けになっている。曲線を使った建物。中はアパートになっている。
まず、屋上に登りオブジェを見た。ここからは、サクラダファミリア聖堂や新しいビルも見える。
タイルを使ったオブゼが面白い、奇怪な形をしている。
記念写真も含め撮っていると、日本人の女性から声をかけられた。
記念写真を撮って欲しいと言うことだったので、少し話しをした。
今日、帰国するらしい。私の名前を言ってホームぺージを覗いてみてと言った。下りながら、ガウディの作った部屋を見た。
カサミらの全景模型や寝室や台所などがあった。個性的という言葉を超えている。
カサミらを出て、また巡回バスに乗ってサクラダファミリア聖堂に向かった。
太陽も沈んでいたので、2階に乗ってオープンバスを楽しんだ。
他に一組くらいしか乗って無かった。肌寒い。
街は夜の景色に変わりつつあった。記念写真を撮る。
サクラダファミリア聖堂も高い位置から見ることができた。
バスを下車。夕食をとることにした。
女房は、パエリアが食べたいというのでサクラダファミリア聖堂の廻りを歩きながら、美味しそうな店を探した。
この辺りは、料理の写真が飾って有るので注文がしやすい30分くらい探した結果、
小さな見せながら美味しそうな店を見つけて注文をして、道にあるテーブルに座った。
道には、車やバイクが走っている。サラダとパエリアを頼んだ。店の人は、東洋人だったので聞くと中国人だった。
味は東洋人らしくなっているのか美味しい。
ヨーロッパに来て感じるのは、イタリアでも水分をとらないことに驚く。
トイレもほとんど行かない。
日本人だけがトイレを探しまくっているように感じた。
9時近くなったので、ホテルに戻ることにした。
あたりは、マフィアのような感じの人たちがいる。
気のせいかもしれない。
聞くところによると、ロシアマフィアの勢力が強いと聞いた。
ホテルのそばも暗闇が多く、人通りも少ないので、遅くなると危険なので急いで帰ることにした。
サクラダファミリア聖堂を通りメトロの入り口に向かった。
サクラダファミリア聖堂もすでにライトアップされていた。
メトロも注意しながら、一駅で下車。
ホテルに向かった。暗い通りなのでできるだけ大きな明るい道を遠回りして向かう。
途中、小さなお店に入りビールを買う。
この店も東洋人の店だった。
スーパー風の店は、とにかく安い。
レストランで飲んだり食べたりすると、スーパーの倍以上はとられる。
ホテルに戻り、荷物を受け取り部屋に入る。
美しい部屋、そして広い。二人で70ユーロ。
二泊140ユーロになる。モンセに頼んでおいたら良いホテルを探してくれたものだ。
2泊なのでを整理していたら、モンセの家にコンセントの部品を忘れて来たことに気がついた。
これが無いと今後充電がすべてできないことになるので困ったことになる。
どうしようかと思ったが、携帯電話でモンセに確認をしたら、ホテルに向かって送ったから心配するなと言われた。
心遣いに感謝した。
カサ・ミラ:ラ・ペドレラ(石切り場)とも呼ばれる。
建築主はガウディと同郷のロサリオ・セヒモン。
繊維会社を経営し国会議員でもあったペレ・ミラと結婚、夫婦ともガウディの崇拝者だった。
高級アパートとして設計されたこの建物では、地下駐車場を設けるなど、将来の都市設計に不可欠な革新的な解決をはかった。
カサ・ミラのテーマは山。
屋上の階段の出口や換気塔、煙突などは山の尾根から突き出た峰々を表している。
10月11日(火)Barcelona (hotel stay) 地下鉄を使いバルセロナのめぼしい場所を観光
8時から朝食を食べれるので、いつもよりゆっくりして1階のレストランへ行った。
受け付けカウンターの後ろあたりにあった。喫茶室を通りバイキング会場に行った。
広くはなかったがお客様でいっぱいだった。野菜や卵など好きなものをとって食べる。
宿泊料とは別料金だったようで、現金で支払った。
部屋で少しくるろいで出発。11時前になってしまった。
一駅向こうのサクラダファミリアに向かってメトロに乗った。チケットは前日買った10回券を使った。
サクラダファミリ聖堂に着くと、入場口には200mくらいの行列が出来ていた。
何時間待つことになるか分からないので、あきらめて夕方に来ることにした。
メトロに乗り、昨日行った、カサミラのある駅に行った。
ガウディの作った別の建物、CASA BATLIO
入り口で入場料を払ってはいると、イアホンを貸してくれる。日本語版もあった。
渡してくれる女性は、言語の確認をする。ジャパンというと流暢な日本語で案内をしてくれた。
大勢の観光客が来ている。人の多さでうんざりして機嫌が悪くなった。トイレに行った女房はなかなか戻ってこない。
込み合っているのだろう。
しばらく待って階段を登ってみて歩く。
実際住んでいる人もいるようで、部屋には鍵がかかった場所も多い。
売店もある。
上の方に登ると、実際に住んでいた様子が分かるようになっている。台所や浴槽、ベッドルームなど各種ある。
テラスのある場所に出ると、ガウディのオンパレード、だんだん違和感を感じなくなる。
しかし、このイメージはどこから出てくるのだろうかと不思議に思う。
屋上に近づくと共同トイレや浴槽もある。各クラスの人々が住んでいたのが分かる。
屋上に上がると、パンフレットなどで見る異様な形のオブジェがたくさんある。
展示場ではなく、生活空間だったことが不思議というか、スペイン人の寛容さを思う。
今でこそ、見慣れたものであるかもしれないが、あの当時に見た人にはどのように写ったのだろうか。
女房は、買い物に飢えていているらしく、先を急ぐ私に腹を立てていた。
屋上近くのトイレが使えるようなので、試しに入って使って見た。
トイレの部屋といっても4畳半はあるだろうか、広々としていた。
出て見ると女房が見当たらないので、もう、下に行ったのだろうと思い1階まで階段を下って行って入り口に行ったがいない。
係りの人に言って、外に出て見たがいない。
しばらく座って待ったが来ないので、また、階段を登って3階の売店に行ってみるといた。
非常用の携帯電話お使っても留守番電話になっているので焦った。
女房は、上のトイレの前で待っていたらしいが、見過ごしたようだ。
受付の人にお礼を言って出た。
また、メトロにのりグエル公園を目指した。交通の便が悪くメトロをおりて15分くらい歩くことになるらしい。
二つの駅が候補にあがったが、近い方を選んで下車した。
標識があるので間違えることはないかったが、とにかく暑い。
町中を歩くのは苦痛を感じた。ちょうど旅の疲れも出始めていた。
途中、企画会社の前にあったバックが綺麗だったので、絵はがきと一緒に購入した。
会社の人が買い物客が来たので、びっくりした様子だった。
しかし、お土産屋さんでは、ないのでふっかけてないので安かった。
ハガキ1枚でも0.5ユーロくらい違っていた。
グレル公園の土産屋さんの値段が楽しみだった。
昼にかかるので、途中のレストランへ入りピザとビールを飲んだ。
コーヒーを頼んだつもりが
この店も東洋系のスタッフが働いていた。無口な中国人の男子が対応した。
言葉が通じるのか心配したが、相手の方が語学力は上だった。
ここから、また、かなり歩いた。15分では到達できない距離だ。
女房も足取りが遅くなり、私が早いことに文句をつける。
多くの観光客がグエル公園に向かっているので迷うことはない。
途中に雰囲気の良い店がある。まずは、グエル公園を目指す。
グエル公園は、ガウディがスポンサーと都市開発を計画して開発したエリアで,
広い敷地の中にゆったりした住宅を計画したらしいが、
結局、全く売れないで1軒ガウディが購入した程度のものだったそうで、結局バルセロナ市が購入して公園にしたらしい。
今となってはバルセロナ市は良い買い物をしたと言われている。
入り口に着くと、ものすごい観光客。駅と離れているので、タクシーもたくさん客待ちをしていた。
入り口に入ると、路上でお土産を広げた人たちがたくさんあった。
1個5ユーロー位のアクセサリーを売っている。
五個買うと割引がある。女房はここで友人のお土産を買っていた。
私は、その間にガウディの作品の壁を撮っていた。
全体を撮りたくても、観光客が鈴なりになっているのでとても作品を作るような雰囲気にない。
アフリカの音楽を演奏している人もいる。
階段を登って行くと屋上が広い公園になっている場所にでた。
ここでは、楽器の演奏をしている人たち、地面でお土産を売る人たちがいた。
ここは涼しい。
しばらく、ここで休憩。音響効果が良いので、演奏が響き渡る。CDも売っていた。
ここから坂を登り上の広場に出た。
ここはベンチが有名な色調の作品が埋め込まれている。
ここからはバルセロナの市内も見れる。海も見える。
広場では、動かない人がパフォマンスをしている。
着ているもの、顔、髪もすべて金色に塗った男性が、炎天下で動かないでいる。
時々、意表をついて動く。前にはお金を入れる箱が置いてある。
写真を撮りたかったので、少しお金を入れて、女房を立たせて、一緒に撮った。
女房は、近づくと汗臭かったと言っていた。
あの炎天下で毎日立っていたら、汗臭くもなる。
もう一人、今度は全身緑に塗っている男子がいた。若い女の子が廻りを囲み記念写真を撮っていた。
ここからは山を登って行くことになる、ところどころにアーチ型のドームがある。
写真で見る景色だ。
しかし、ここまで来る人は半分にも満たないので、静かになる。
少しお腹が痛くなってきたが、あたりにトイレがない。
頂上まで行けば有るだろうと思っていたが、日本のようにトイレはほとんどない。
頂上近くまで行ったが、どうもなさそうであった。
我慢できなくなり、道からかけ下り森の中に入って用を足した。
誰か来るのではないかと心配したが誰も来なかった。
坂を登ると女房が待っていた。
女の子がおりていったけど会わなかったかと笑っていた。
とりあえず、危機は脱したが十分ではなかった。
ヨーロッパにきて食べ物・飲み物が大きく変わったので腹具合は心配の種だった。
女房も苦しんでいたようだ。
頂上に登ったが、ただの広場があるだけで特別何もなかった。
確かにバルセロナの市内が一望できた。
下の広場よりもかなり標高が上がっているので全体が見渡せた。
来た道を下る。
広場を横に見ながら入り口に向かった。入り口にトイレがあったのでここで落ち着かせようと思っていた。
トイレは売店に併設されていたが、トイレのドアのかぎは壊れていて、あたりにはティシュも散乱、
とても使えるような状態ではなかったのであきらめて出た。
20分歩けばメトロにトイレがあるかもしれない。
というのも、トイレが極端に少なく、見つけた時は用を足しておかないと、次にいつあるか分からない。
坂を下り始めると、しゃれた店に女房が入って行ったので、私は道端にある水の出る場所に行き水を出して、顔を洗った。
気持ちが良い。
ベンチは観光客に占領されていたので立って待った、前には日本にあったポストがある。
しかし色は赤ではなく、黄色。スペインは、何事も奇抜というか意表を突いた色彩と形がある。
メトロに乗り、サクラダファミリアへ向かった。
乗り換えをしなくてはならない。
駅に表示してある番号に従って行く。
サクラダファミリア聖堂の駅に着き、上にあがってみると、入場口は30mくらいの行列しかいなかった。
サクラダファミリア入場券
8時まで入場が出来ると本に書いてあったので、17時着きゆっくり見学できると安心した。
しかし、目的の一つのエレベーターで登る別チケットは、ソールドアウトだった。1階の館内のみの見学となる。
外もすごいが中に入ると天井の高さは尋常ではない。100mはあるのだろうか唖然とするしかない。
非効率の建築物なのか、宇宙空間か体内なのか見たことのない風景だ。
周りの壁にはステンドグラスの窓がたくさん有り、赤や青を中心にしている。
完成して何百年もすると、もっと価値が上がるだろうと思う
撮影禁止ではないので、思う存分写真を撮った。いくら撮っても撮りきれない。
夕方になり、光が傾いきてステンドグラスを通して美しく壁を照らす。
サクラダファミリア 夕方が美しい
外に出て見ると、外観を真下から見ることが出来た。
しかし、警備員が観光客を先導して出し始めた。聞いてみると、6時閉門だと言う。
2時間早いではないかと思ったが、言葉が通じないのであきらめた。
地下に行けるのが分かったので降りて行ってみた。
サクラダファミリア聖堂の模型とか歴史が展示してあった。
時間がないので急いで見た。結局は、追い出されるように最後に出た。
まだ、あたりは明るいが、夕食をしようとサクラダファミリア聖堂の廻りを歩きながらレストランを物色した。
女房はパエリアを食べると言って、店先の写真と料金を見比べて歩く。
なかなか見つからない。
1周して結局見つけたのは、小さなレストラン。
店先のイスに座って注文をした。お店の人は中国人だった。
サラダとパエリアと肉団子風。を各一頼んだ。飲み物はビール。
パエリアは封通の皿に入って来たので女房はがっかりしていたが、味はいける。
メトロに乗ってホテルに戻る。
帰る途中に女房はリンスが欲しいのでというので、スーパーに入った。
たくさん種類があるようだが、スペイン語が分からないのでどれを買ったら良いか分からない。
そばにいた女性に聞くと、親切に教えてくれたので買うことが出来た。
水も一本に買った。もちろんノンガス。
明日はジュネーブに向かって出発。
朝が早いので、早めに眠ることにした。
グエル公園
ガウディのスポンサーだったグエルは、街を見下ろす山の手のこの土地に60戸の住宅を造成し、
緑に囲まれた閑静なイギリス風の住宅街を作ろうとした。
そのための都市デザイン、道路整備、正面から中央広場にかけてのパブリックスペースの建設が、ガウディによって行われた。
カサ・バトリョ
グエル家と同じく繊維業界のブルジョアであったバトリョ家は、カサ・ミラのオーナーであるペレ・ミラのすすめで、
1877年に建てられた建物の増改築をガウディに依頼した、
1・2階が全面的に改造され、6階と屋根裏が増築されている。
この建物のテーマは海。建物の正面が海面とすれば、内部は海面の下、つまり海底や海底洞窟が建築化された。
正面の壁は海面のように波うち、壁に貼られた色ガラスは、海面に光が乱反射しているかのように輝く。
また屋上の煙突は、煙がゆぎながら昇る様子を表している
クラダファミリア聖堂
サン・ホセ(聖ヨセフ)信徒教会の会長を務めていたバルセロナの書店主ポカベーリャは、
聖家族(サクラダ・ファミリア)に捧げる教会を造ろうと決意。聖ヨセフ
の日である1882年3月19日に起工式が行われた。
初代建築家ビリャールの案であるネオ・ゴシック様式で地下聖堂の建設が始まったが、翌年の1883年にビリャールが辞任すると、
当時31歳だったガウディがあとを引き継ぐ。
すでに強い個性を発揮していたガウディは、当初の設計を自分のプランへ作り替え、
世界でも例をみない「完璧な教会」の建設を目指した。
これを機にガウディはキリスト教に関する知識を深め、同時に自身の信仰も深まっていった。
1914年には、サクラダ・ファミリアの建設に専念することを宣言する。
しかし聖堂は信者から寄進で財源をまかなう「賺罪の教会」であったため、資金難から工事はなかなか進まず、
ガウディ自ら献金集めに奔走。教会に寝泊まりし、みすぼらしい身なりのため浮浪者に間違われることもあったという。
1926年に73歳で亡くなるまで、ガウディは人生のすべてを聖堂の建設に捧げ、
彼の才能と情熱を注ぎ込んだサクラダ・ファミリアは、いつかバルセロナのシンボルになっていった。
現在もガウディが残した設計図や模型をもとに建設が続けれれており、一時は完成まで200年はかかるといわれていたが、
昨今の入場料金の増加により2020年頃には工事が終了する見込みとなっている。